今、改めて、霊学の基本である『カルマ因果律)』について振り返っています。
 そこで、当記事でご紹介させて頂く記事内容を思い出しましたので、記事作成してみました。

 人間が平然と「過ちを犯す」というのは、この『カルマ因果律)』という「単純にして基本的な原理」に対する「無知」から来ていることが大なる理由だと思います。「無知」とは、本当に恐ろしい魔境です。

 『カルマ因果律)』という原理は、世界中のあらゆる覚者が太古の昔から切実に説いているものです。
 決して甘く見るべきではありません。


 この『カルマ因果律)』について、一番明快に示しているのは、次の「ナザレのイエス(イエス・キリスト)」の言葉でしょう。

   自分が蒔いた種は、自分で刈り取らねばならない。

 『カルマ因果律)』とは、単純に言って、まさに、この言葉の通りです。
 この「ナザレのイエス(イエス・キリスト)」の言葉に重ねて、当記事をご覧になって頂けたらと思います。

 これらの記事や言葉は読む人を選ぶと思いますが、興味のある方は、ぜひ、ご参考にされてみてください。
 よろしくお願いいます m(__)m
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 悪口を言う人がおったら拝むのや ~ 2006年3月8日(水)
 【「2012年の黙示録 」
より 】


悪口を言う人がおったら拝むのや  2006年3月8日(水)
 

 前回の「つぶや記」をご覧になったある方からお便りを頂きました。
 その方は、お父さんが「天理教の文教会長」をなさっているとのことで、天理教について大変詳しい方です。
 そのお便りの一部を以下にご紹介します。


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 最新ダイアリー(註「大難は小難にすることができる」3月6日)で、

    他人の悪口を言うと、その人のカルマを自分がもらってくることになるのです。
     人から悪口を言われたら喜ばないといけないのです。


 とありますが、

 天理の書物で『神に近づく道』(渡部与次郎)というものにも似た文章があります。




 「悪口を言う人が恩人」という小題目次の中で、

    その中でも、世界始まって以来、誰一人言っていない、
     世界いちれつ陽気ぐらしへの決め手、切り札となるお言葉と思われる一つがある。

     「 悪口を言う人がおったら拝むのや。
       その人がこちらの因縁を取ってくれる恩人やで。」


 というものです。
 真理はひとつですね。


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 天理教の神さま(親神様)も、『日月神示』と同じことを仰っているのです。
 こうしてみますと、「他者(人とは限らない)の悪口を言ってはいけない」というのは、単なる「道徳律」というより、「宇宙の法則」と言うべきかも知れません。


☆ ★ ☆



 さて、本日は「カルマの法則」シリーズの第2話としまして、
 当サイトにもアップしております『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著サンマーク出版)の中にある「カルマ」についての記述を取り上げてみたいと思います。


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あなたは永遠に責任から逃れられない

 私たちのほとんどは「自分の行動のいくつかには責任があるが、そのすべてに責任があるというわけではない」というアイデアに慣れ親しんでいる。
 例えば、自分が何かをして周囲の人たちと仲が良くなったときには、それを自分の手柄だと考えるが、結果的に彼らと議論になるような場合には、それは自分のせいではないと考える。

 あらゆる行動思考フィーリングが、意図によって動機づけられている。
 意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。
 もし、私たちが何らかの原因に関わったとしたら、私たちがその結果と関わらないことは不可能である。
 このように極めて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動思考フィーリングに関する責任を負わせられている。

 私たちは、自分の意図の果実のすべてを、自ら食べなくてはならないのである。
 よって、自分の様々な意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは賢いことである。

 他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。
 他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することになる。
 キリストが「山上の説教」のなかで行なった、「自分がしてもらいたいと思うことを、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学にもとづいた行動指針である。
 個別化されたカルマの法則は「あなたは自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。

 カルマは、道徳的な力学ではない。道徳は、人間が創造したものである。宇宙は決して裁かない。
 カルマの法則は、私たちの道徳システムの内のエネルギーバランスを含む、あらゆるエネルギーバランスを支配している。
 結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。
 それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある。
 そして、そのバランスは、必ずしも、ひとつの生涯のなかでとられるとは限らない。





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 いかにも「キリスト教的な説明」のように感じられますが、カルマの法則を大変わかりやすく表現しています。
 私たちのすべての『行動思考フィーリング』には必ず「意図」が存在していて、その「意図」がそれにふさわしい「結果」を生み出す「原因」になっているということです。
 この中に「言葉」が含まれていませんが、言葉も行動の一つと捉えれば、まさに仏教で教える『身意』が「因」となって「果」を生み出すことを述べているわけです。

 そして「結果を生み出していない原因はまだ完結していない出来事で、それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある」ということです。
 しかも「必ずしも、ひとつの生涯のなかでバランスがとられるとは限らない」と述べています。
 『私たちが過去世でつくり出した原因の結果が現在の人生である』と考えることができるのです。

 この『魂との対話』は「全米で300万部を超えた驚異的なロング・ベストセラー」と本の帯に書かれていますが、我が国では、それほどヒットしなかったようです。それは、もしかしたら翻訳(の回りくどさ)に問題があるのかも知れません。
 しかしながら、内容は大変深淵な真理を述べていますので、ぜひ手にとって頂きたい本です。
 当サイトにもできるだけ多くの文章を拾い上げる目的で「見出し」部分はリストアップしています。

 なお、余談ですが、この本とよく似たタイトルの『神との対話』という本がシリーズで出されています。
 よく売れているということでしょう。
 私も何度か書店で手に取り、また1冊は購入して仕事帰りの通勤電車の中で読みましたが、電車を降りてすぐに駅のゴミ箱に捨てました。「百の真理に毒一つ」の本だと判断したからです。
 誰もが「なるほど」と思うようなことも書かれていますが、その中に大変危険な「嘘」が混入されています。
 これは料理に混ぜられた「ヒ素」のようなもので、知らずに読んでいると、いつの間にか精神が犯されていく危険性があるのです。

 最近では、ここでも一度ご紹介した『天国と地獄』も、その類の本だとわかりました。
 この本の中にある「死後の世界を支配する法律33箇条」をご紹介するつもりで入力を始めたのですが、すぐに断念しました。それは、あらためて読み返した「アラン・カルデック」の既刊『霊の書』(桑原啓善潮文社)とは似ても似つかぬ低い波動の本だったからです。
 そういうわけで、お約束していました「死後の世界を支配する法律33箇条」は当サイトには取り上げないことにいたします。ご了承ください。


☆ ★ ☆



 さて、本題に戻しまして、最後は以前にも当「つぶや記」でご紹介したことのある『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著講談社)からの抜粋を再掲します。
 こちらはいかにも仏教的なカルマの説明となっていますが、内容は上記の『魂との対話』とそっくりであることがおわかりになると思います。まさに、真理はひとつなのです。


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 カルマは何を意味しているというべきだろう?
 それは「私たちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべて、それに応じた結果をもたらす」ということを意味している。

 「例え わずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、例え 小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それを、ブッダはこう言い表す。


    悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。
     小さな火花ひとつで、山ほどもある積み藁(わら)を焼きつくすことができるのだから。
     ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。
     小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから。



 私たちの行為の結果は、今はまだ熟していないかもしれない。
 だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。

 普通、私たちは自分のしたことを忘れる。
 そして、遥か後になって、その結果が私たちに追いついて来る。
 その頃には、それを原因と結び付けることはできなくなっている。


   (中略)


 私たちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。
 そして、その原因をひとつに特定することはできない。
 なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマの極めて複雑な複合体であるからだ。
 そのため、私たちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。


   (中略)


 ブッダが言ったように「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。
 パドマサンバヴァは、さらに言う。


    過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。
     来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ。


sansei_image[1]



 つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における「自分の行為の質」によって決まる、ということである。
 ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえに「その行為の裏にある意志や動機による」のであって、行為の大小によるのではない。





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 これをもちまして「カルマの法則」シリーズ第2話を終わらせて頂きます。




 ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
 【 ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア(著)/ 福間巌(訳)



  【対話11】

   カルマはそれ自体のうちに、それ自体の「破滅の種」を孕んでいるのです。
   ( 英語Karmas carry the seeds of their own destruction in themselves.




上記の『カルマは、それ自体のうちに、それ自体の「破滅の種」を孕んでいるのです』という「ラマナ・マハルシの言葉」、これも『カルマ因果律』の原理を分かりやすく説明しています。
 『カルマ因果律』とは、永遠にずっとず~っと続くようなものではありません。自分がつくり出した「因(原因)」は、その「因(原因)」に応じた、ちょうど良い「果(結果)」として現象し、消化されます。つまり「因(原因)」は、その「因(原因)」に対して最適な「果(結果)」として現象して消化され、その「因(原因)」と「果(結果)」はセットで「消失」します。
 この「因(原因)」と「果(結果)」はセットで「消失」する、という『カルマ因果律』の原理を、ラマナ・マハルシは『カルマ自体に「破滅(カルマは因と果のセットで消滅消化する)の種」を孕んでいる(持っている』と表現しているわけです。ですから、一つ一つの『カルマ因果律』は、現象しては消えていくため、その『カルマ因果律』がずっと存在し続けることはないのです。それがために、この『カルマ因果律』の「因と果のセットによるカルマの消滅消失消化」を『カルマの昇華』とも言うわけです。ですから、それが如何に「つらく、苦しいカルマの現象」であろうとも、自分が経験して消化する必要があるためにその現象が起こっているので、それを「感謝で」甘受して経験して受け切ってから「自分のカルマを一つ一つ昇華させる」ことが良いのです。そうすると、後々、自分の身が軽くなっていきます。
 この「感謝で」の部分が、当記事の最初のほうにある『悪口を言う人がおったら拝むのや(感謝するのや)。その人がこちらの因縁を取って(身軽くして)くれる恩人やで。(だから、どんだけ嫌な奴でも感謝しぃ~やぁ~!』につながってくるわけです。
 このように「感謝で」済ませる理由と意味は、さらに続いてしまう「不平不満による悪因」を断つためです。「人から悪口を言われた」ことに対して不平不満や憎悪を抱けば、その抱いた不平不満や憎悪がさらなる「悪果」を生み出してしまうため、『悪因悪果』の悪循環が続いてしまうのです。この『悪因悪果』の悪循環を「感謝」で断ち切り、逆に『善因善果』の良い循環を自ら意図的につくり出すわけです。こうして「感謝」に進めて行かないと、『悪因悪果』の悪循環がず~っと続いていくことになるでしょう。この『悪因悪果』の悪循環は「感謝」に進めることによって断ったほうが利口です。ずっと何も変われない人は「感謝」が足りないからとも言えます。もしくは、心の表面上では「感謝」をしていても、本心〔本音〕では不平不満や憎悪を抱き続けているからです。「感謝」というものは、本気で本心〔本音〕からしなければ、かえって「逆効果」になることさえあります。なぜなら、潜在意識は「自分の本音(本心)」のほうを採用するからです。ですから、最初は形式的な「感謝」になってしまっても、本心〔本音〕から「感謝」できる域にまで進むことが大切です。そのためには、繰り返し繰り返し「感謝」を発することが必要だとよく言われていますね。ただ、ここは「感謝」を意識下に置くだけで、案外と違うものです。
 ここらへんは『カルマ因果律』の原理を紐解くところから、自ら理解へと進めるほかありません。そして、ここは、変なスピリチュアル・ゴッコに陥らないように気をつけたいところでもあります。
 要は、それと同じのものが「自分の中にある」から、それが「自分の外からやって来る」のです。よく人から悪口を言われてしまう人は、自分が人の悪口を言っていないどうかを再確認することが大事です。口では悪口を言っていなくとも、口の奥‥、口の大元である「心の中」で罵声罵倒を繰り返していないかどうかも確認しましょう! その「心の中での罵声罵倒」も、当然ながら『悪因悪果』を生み出しています。「心の中での出来事」も、要注意です。

 ですから、昔から『善因 多き者に、善果 多し』そして『悪因 多き者に、悪果 多し』と言われてきたのです。
 したがって ‥

    もォ~、えぇ~よ‥。 ホント、もう、いぃ~から‥。
     これ以上、幸せなことが起こっても、もう充分だからサ‥。
     お願いだから、もう幸せなこと、起こらないでくれよ!


 ‥ みたいなことを願っても、『善因 多き者に、善果 多し』の人には、幸せなことがどしどし起こらざるを得ないわけです。こういう人は、どうあがいても「幸せモード」から逃げられないのですね‥(ハッキリ言って、うらやましいィ~)。
 逆に『悪因 多き者に、悪果 多し』の人はどうかと言うと‥、これについては、もはや言わずもがなですね。
 ただ、『善因 多き者に、善果 多し』の「幸せモード」の人であったとしても、それに調子ぶっこいて『悪因』を積み重ねると、気づいたときには『悪因 多き者に、悪果 多し』の「不幸絶叫モード」に転落しますので、要注意です。

 また『悪因 多き者に、悪果 多し』の人であっても、この世には『悪因悪果』を経験することなく消化することできるように『善行による、悪因悪果の相殺(そうさつ打ち消し合うこと』という「悪因悪果の免除」があります。『悪因悪果』を経験せずに「免除」されたい人は、少しでも多く『善行』へと進めたほうが得策なのです。

 以上をまとめますと、いわゆる、『悪因悪果』として起こった現象は「感謝して」受け止め、受け切って、同時進行で、自ら進んで、自分にできる範囲で無理なく『善行』に努める、というのが利口だということです。
 ただ、しかし、これを「自分が助かりたいから‥」とか「自分が楽になりたいから‥」という理由だけで行なってしまうと、その「自分の本性自己中心」がまた「因(原因)」となって自分にしがらみ付いてきますので、ここに対する考え方や実行というものは自分で熟成していくよりほかありません。
 そうしないと、これに狂った「どこぞの新興宗教」の餌食になっている信者のようになってしまうので、ここは宗教とか関係なく、自分の中で整理しながら、自他ともにプラスになれるように進めて行くべきです。
 私がここでご紹介している『カルマ因果律』というものは、宗教とは一切関係ないことです。ましてや、新興宗教に呑み込まれているような者に、この世の原理の『真実』を、つまり、本当の『真理』を見出せる意識も力もまずありません。
 この世の原理の『真実』や『真理』へとたどり着ける者は、新興宗教など絶対にやっていません。宗教を見つめるにしても、世界中の宗教文献をあくまで参考として見つめているだけです。新興宗教に走るような人は、自分の不幸から抜け出したいためにやっている人ばかりであり、自己逃避の成れの果ての結末の姿であって、その新興宗教のコピー人間へと歪んで堕落するだけの人です。
 世の中には「運命がどうのこうの」と言っている新興宗教が多数ありますが、そういう新興宗教は決まって「運命を固定的に考えている」のです。「あなたは、うちの宗教をやらないと、運命の悪さが変わらないわよ」とか、ふざけたことをぶっこいています。これは明らかに大嘘であり、基本中の基本さえ知らない「無知者」です。
 運命というものはあることはありますが、人の運命なるものは「自分の精神の在り方や行動の如何によって、簡単にコロコロと変化する」のが真相であり、運命を「固定的に」考えている時点でアウトです。そういう新興宗教は確実に「魔境」であり、まぁ、新興宗教になっている時点で ほぼ100%「魔境」ですから、そういうものには絶対に絶対に関わってはなりません。そういうものに関わると、いくら良い思いをしても、それはあくまでトリックであって、後日、「プラスマイナスゼロ」になる「清算」を必ず受けますから、かえって、自分の人生が狂わされてしまうのです。だから、新興宗教に心を奪われ、自分を見失っては絶対にならないのです。
 今、危険な新興宗教や、都合の良い馬鹿げたスピリチュアル・ゴッコにのめり込み、大事なものを失って泣いている人たちが多いので、心配になって以上のことを書いてしまいました‥。今も、新興宗教やスピリチュアル・ゴッコにのめり込んでいる人は、大事なものを失ってから気づいても、もう遅いということに早く早く気づいてください。
 そういう方は、ここでよくお考えください。もともと人間は、この人間界に人として生まれている以上、新興宗教などやらずとも、スピリチュアル・ゴッコのセミナーなど行かずとも、自分に意識さえあれば、その人なりにこの世の『真実』や『真理』にたどり着けるように平等に設定されているのです。ですから、新興宗教も、スピリチュアル・ゴッコも、もともと「必要ない(いらない)」ことに気づきましょう! あなたを新興宗教やスピリチュアル・ゴッコにのめり込ませている犯人とは、あなた自身の「我欲」に他なりません。この「我欲」が、あなたと同類の「魔境新興宗教スピリチュアル・ゴッコ)」へとあなたを引きずり込んでいるのです。やはり、人間は「自己責任」だということです。この根本原因を、よくご理解されてください。
 ただ、霊学を正しく理解している人であれば、新興宗教やスピリチュアル・ゴッコの言っていることの「おかしさ」に明らかに気づけますから、もともと、霊学を正しく理解していれば、新興宗教やスピリチュアル・ゴッコにのめり込むことなどないのです。新興宗教やスピリチュアル・ゴッコにのめり込んでいる時点で、あなたは「無知」だということです。失敗して泣く前に、この「自己の無知」について早く気づかれてください。よろしくお願いします
ブログ管理人




 日月神示
 【 岡本天明(著)



  【黄金の巻第8帖】

   外にあるもの、内にあるぞ。


  【黄金の巻第66帖】

   自分の中にあるから、近寄って来るのであるぞ。
   厭()なこと起こって来るのは、厭なことが自分の中にあるからじゃ。


  【春の巻第16帖】

   雨降らば雨を、風ふけば風を、一先づ甘受せよ。
   甘受した後、処理して行かなならん。

   受けいれずにハネ返すのは大怪我のもと。
   何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。


   何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。
   内にあるから、外から迫るのぢゃ。
自分で呼び寄せているのぢゃ。

   
苦しみの神、因果の神 呼んでおいて、不足申している者 多いのう。

   自分で呼び寄せながら、嫌がってハネ返す手、あるまいにのう。
   同じものでも、表からと裏からとでは違うのぢゃ。
   同じ目で見ても、違って映るのぢゃ。心得よ。



  【黄金の巻第71帖】

   世界がそなたに映っているのぞ。
   世界見て、己の心、早う改心致されよ。


上記の『外にあるもの、内にあるぞ』や『自分の中にあるから(外から自分に向かって「自分と同じ存在」が)近寄って来るのであるぞ』は『鏡の法則』に通ずる、この世の重要な仕組みです。外から何か迫って来るのは、それと「同じもの類同)」が自分の中にあるからです。いわゆる、これは『類同法則似た者同士が親和力〔引力〕によって引き寄せ合い、出会う)』のことを言っています。外から迫って来るもの、それは「自分が引き寄せている」わけです。上記の日月神示の言葉は、この基本原理を短い言葉で見事に言い表わしています。『自分で呼び寄せながら、嫌がってハネ返す手、あるまいにのう』というところなんて、まったく、その通りです。相手に不平不満を持っている暇があるのなら、その相手の姿の中に「自分自身の本性本当の自分の姿)」を見出し、自分のほうを改善せよ!ということです。要は、相手の姿は「自分の鏡自分の「本当の姿」の一面を映し出している)」ということですね。これは『鏡の法則』そのものです。
 『鏡の法則』とは「私たちの人生の現実は、私たちの心の中を映し出す鏡である」という法則であり、「自分の人生に起こる問題の原因は、すべて、自分自身の中にある」という、この世に実在する仕組みであり、この『鏡の法則』が伝えている内容とは、表現が違うだけで、上記の日月神示の内容と同じです
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