この資料は、近代において最大の覚者と言われている「ラマナ・マハルシ」の言葉です。
 著名な「あるがままに ~ ラマナ・マハルシの教え」という図書の巻末に収録されている対話集「私は誰か?」をご紹介しています。




 ラマナ・マハルシは「私は誰か?」という非常に「シンプルな問いかけ」を自分に課し続けて覚醒した聖者です。
 しかし、この「シンプルな問いかけ」である「私は誰か?」を真に答えられる人はほとんどいません。
 というよりも、一般の人間ではこの「問いかけ(私は誰か?)」にすら気づけないでしょう。
 普通は、このような「問いかけ(私は誰か?)」が存在することにすら気づけないです。

 人間の「気づき」は、その人の人生を左右します。
 人間は「気づく」ためにも生まれています。
 それほど、この「気づく」という作業は、人間にとって重要なことなのです。
 ここに重なるものとして、ぜひ「《名言シリーズ》 一個の人間にとってもっとも恐ろしいのは、気がつかないということです。気がついてしまえば、救う方法はあるものです。」記事を参照されてみてください m(__)m


 人間は、人間が何者なのかを知る人はほとんどいません。
 そして、自分という存在を真に知る人もほとんどいません。
 人間は自分自身すらよく分かっていないのに、自分の外の存在ばかりを、あぁ~だの、こぉ~だの、駄々をこねている感じに映ります。自分すらよく分からないのに、自分以外の存在の何が分かるというのでしょうか・・・。

 案外と、この記事にあるような内容が理解できないと、世の物事を「真に理解する素養」があるとは言えないように私は思うのです。現代人は、人間が盲信して意識を支配されている宗教たる科学医学栄養学を知っているそうですが、これらで一体、どれだけの物事が説明できるのでしょうか? 私から見れば、説明できない事象のほうがまだまだ遥かに多いと思います。

 例えば、医学や生化学や栄養学では説明のつかない「人間の身体の仕組み」がまだまだあります。
 生化学や栄養学だけで見てしまうと「健康に生きることはとてもできない」と思われるような食習慣で無病息災に暮らしている民族が世界中にたくさんあります。生化学や栄養学の教科書しか知らず、この教科書だけを拝んでいる人たちは、厳然として存在している世界の実地(教科書通りでは説明のつかない実地)を見ることもなく、また見る気すらなく、生化学や栄養学の教科書内でしか通じない常識(という名の非常識)に捉われた判断基準しか持てないのです。

 ATP(生体エネルギー)は、ブドウ糖アミノ酸脂肪酸というエネルギー源「以外」からも得られる仕組みが、人体にはあるようです。実際に世界の民族や自然界を素直に見つめれば、それを思わせる事例がいくらでも存在しています。しかし、それらは、生化学や栄養学の教科書には載っていません。
 医学生化学栄養学の教科書に載っていないことは、この人間社会では「存在しない」ことにされてしまうようです。当然ながら、人類にとって科学医学生化学栄養学は貴重な財産ですから尊重すべきであるのは言わずもがなですが、これらの盲者へと堕落するのは決して良いこととは言えません。
 科学医学生化学栄養学を尊重する心と、科学医学生化学栄養学ではまだ説明のできない事象を素直に見つめて認める心と、この両方のバランスが求められるように思います。



 癌患者のみなさんは、ご自分の体内に現われた癌のことが「憎い」ですか? 「嫌い」ですか?
 なぜ、近代に入ってから、人類は癌に脅かされるようになったのだと思いますか?
 実は、癌は「人類そのもの」を現わしているのです。
 癌は、「人類そのものの姿」が “人間の体内に転写して現われている” だけです。
 この意味がお分かりになられますか?

 人類は近代に入り、自分勝手に、人間の利己的な都合で、地球を破壊し、地球を汚染して汚し、地球を滅ぼそうとする「地球への殺傷行為」を取り続けています。その人類の行為の姿が「人間の体内に転写して現われている」のが癌なのです。

 「地球  人体」「人類人間  癌」です。
 地球を破壊し殺そうとしている人類人間の姿は「人体を破壊し殺そうとしている癌」にそっくりです。
 (「クリソツ」っちゅうヤツです

 私は「癌は役割を担って体内に生まれている」と感じています。
 しかし、癌は放ったらかしにしていると、やはり、癌で死ぬことになります(癌死します)。
 癌は人間の生命を奪う側面も持ちます。

 癌患者のみなさんは、人類人間を今日も無償で生かしてくれている地球に対して、ご自分が癌になっていないか問いかけてみてください。地球に牙を向け、地球に害を加えることに加担している一員(一因)に、ご自分がなっていないかを・・・。
 癌は、人類人間による地球破壊、地球汚染、地球殺しが激しくなるのに比例して、世界中で激増しています。
 こういう視点を持つのも、非常に大事なことではないかと私は思います。
 こういった視点から、思わぬ事実に出会うことができることもあるかもしれません。
ここは「癌は、人類の「愚かな暴走」に警鐘を鳴らすために生まれてきた! 癌を多発させている大元の原因である『人間の真姿(本性)』を省みて・・・【 人間と癌の「先後の秩序」】」記事を参照してください



 私は今まで、私なりに癌細胞についていろいろと考え、感じてきました。
 それを、当ブログサイトで、ありのままに綴らせて頂いてきました。

 今の私は、癌細胞にも「善玉」と「悪玉」があると感じています。
 人間に益成す癌は「善玉癌細胞」です(人間の身体を守る癌)。
 人間に害成す癌は「悪玉癌細胞」です(人間の身体を破壊する癌)。

 今では、癌細胞を攻撃している免疫細胞の他にも、癌細胞を守っている免疫細胞が発見されています。
 免疫細胞が攻撃しているのは、人間に害成す「悪玉癌細胞」でしょう。
 免疫細胞が守っているのは、人間に益成す「善玉癌細胞」でしょう。

 それはまるで、腸内細菌に「善玉」と「悪玉」とが在るように、そして、活性酸素に「善玉」と「悪玉」とが在るように、癌細胞にも「善玉」と「悪玉」とが在り、それぞれに陰陽の役割があるのだと思います。

 この世は「すべてが善である」などあり得ません。逆に「すべてが悪である」などもあり得ないことです。
 この世とは、善もあり、悪もあって、そのバランスが取れていて正常なのでしょう。
 ただ、これは、人間が勝手にそれを善と見なし、人間が勝手にそれを悪と見なしているに過ぎません。
 時代が変われば、この善と悪の認識はコロコロと変わっています。
 「本来、善もなく、悪もなし」というのが真理のようです。


 また、最近の私には、癌細胞自体が『糖質制限装置』であるように感じます。
 別の言い方をすると、癌細胞は『体内の糖質量(ブドウ糖量)を調整する装置である』と、私には映るのです。
 これは「善玉癌細胞」であり、「人体に必要として生まれている癌」です。

 しかし、活性酸素が大量に発生することにより「身体の酸化が進行した結果として現われる癌」もあり、この癌は「人体にとって脅威となる癌」であって、「悪玉癌細胞」と呼ぶべきものです。
 現代の日本人が暮らしている日本社会は、活性酸素が大量に発生してしまう社会環境です。このような日本の社会環境下で暮らしていると、活性酸素が大量に発生してしまいます。活性酸素が大量に発生すると細胞や組織に「
酸化ストレス」が強くかかり、「酸化ストレス」が増大すると身体の酸化が促進していき、その結果、癌へとつながっていくのです。

 「藤木龍輔」医師は化学物質・化学化合物、重金属は体内に入ると大量の活性酸素を発生させ、酸化ストレスが増大し、その結果、癌につながっていく!」記事において、このように言われています。

  化学物質化学化合物、重金属が体内に入ると)持続的に大量の活性酸素が発生し、
    細胞に酸化ストレスが起こります。その結果、癌につながることになります。
   細胞レベルでの酸化ストレスによる微小変化を放置すると、大きな心臓発作癌につながります。

 「藤木龍輔」医師は、癌は大量に発生した活性酸素による「人体の酸化」の結果として発生したもの、という結論を出されていますが、これは上述の「身体の酸化が進行した結果として現われる癌」を指しています。
 これは「悪玉癌細胞」であり、「叩かなければならない癌」でしょう。

 癌には、『糖質制限装置』としての『体内の糖質量(ブドウ糖量)を調整する装置』という「善玉癌細胞」の役割として「人体に必要として生まれている癌」もあれば、大量に発生した活性酸素による「人体の酸化」の結果として発生した癌(身体の酸化が進行した結果として現われる癌)という、人体にとって脅威となる「悪玉癌細胞」もあるのです。

 ここは、もう少しお話ししてみます。


 昔の人間は、糖質(ブドウ糖)を摂取していても食べ物が少ない時代でしたから糖質(ブドウ糖)の過剰摂取などできず、必要最低限の糖質(ブドウ糖)を適宜に摂取し、よく歩き、よく体を動かしていたため、糖質(ブドウ糖)が代謝されずに体内に残存することはありませんでしたので、糖質(ブドウ糖)による害などほんとんどありませんでした。

 しかし、現代の日本人は、糖質(ブドウ糖)の間違った摂取(精白穀物や精白糖など)をし、糖質(ブドウ糖)を過剰に摂取し過ぎ、また、歩行も少なく、運動量が減っているため、糖質(ブドウ糖)が代謝しきれずに体内に有り余って残存して「終末糖化産物」という強い毒性を持つ恐ろしい物質となってしまうので、糖質(ブドウ糖)の害が激しいのです。これが、癌をはじめとする様々な病気を引き起こします。

 人類が糖質(ブドウ糖)をこんなに過剰摂取できるようになったのは、人類史上ではつい最近の出来事です。
 ですから、人間の身体には「体内に有り余って残存している糖質(ブドウ糖)を排除して無害化する機能」がまだ身に付いていません。では、どうしたら良いのか・・・?

 人間の身体は、生体生命による安全機構が働いて、この事態に対処することになります。
 糖質(ブドウ糖)を過剰摂取することによって「体内に有り余って残存している糖質(ブドウ糖)」が「終末糖化産物」という恐ろしい物質になってしまうのを防ぐべく、体内で代謝されずに残存している余計な糖質(ブドウ糖)をかき集め、比較的安全な「乳酸」に変え、体内の糖質量(ブドウ糖量)を調整する「新たな器官」をつくることが必要になったわけです。これを、人間様は「癌細胞」と呼ぶようです。


 体内で代謝されずに有り余ってしまった余計な糖質(ブドウ糖)が原因して「終末糖化産物」が発生してしまうのは身体にとってあまりにも危険ですが、余計な糖質(ブドウ糖)を「乳酸」に変えてしまえば比較的安全です。

 体内に有り余った余計な糖質(ブドウ糖)を「癌細胞」にかき集めて「乳酸」に変え、この「乳酸」を正常細胞に運べば、酸素のある環境であれば「乳酸」は可逆的に「ピルビン酸」となり、この「ピルビン酸」はミトコンドリアに入って ATP(生体エネルギー)をたくさん産生することができます。
 また、「コリ回路」と言って、体内にある「乳酸」は血液の流れに乗って肝臓に運ばれ、乳酸脱水素酵素によって「ピルビン酸」に変換され、その後、「糖新生」によってブドウ糖が再生されます。こうして再生されたブドウ糖は血中に放出されて、赤血球などで再びエネルギーとして使われます。
 体内に「乳酸」が多発生して蓄積すると、身体はその「乳酸」を血流を通して回収して、肝臓に集めてブドウ糖に再生する、といった処置を取ります。こうして身体は「乳酸」の害を無害化して再利用するのです。

 短距離走などの激しい「無酸素運動」をした時は、ミトコンドリアで ATP(生体エネルギー)を産生するには酸素が足りず、また、ミトコンドリアでの ATP(生体エネルギー)産生は時間がかかるために間に合わないため、無酸素状態にて早く ATP(生体エネルギー)を産生できる解糖系での ATP(生体エネルギー)産生となります。
 解糖系のみによる ATP(生体エネルギー)産生は、癌細胞と同じく「乳酸」が多発生して蓄積します。
 しかし、筋肉組織にて多発生して蓄積した「乳酸」は(上述のように)血流を通して回収され、肝臓でブドウ糖に再生されて、再び血中に放出されて再利用されます。

 この事例が示しているように、身体の細胞や組織に「乳酸」が多発生して蓄積しても、「乳酸」がその細胞や組織の一箇所に “ず~っと蓄積し続けてしまうことはない” と言えるのです。身体の生命機構には、「乳酸」が何らかの諸事情により多発生して蓄積したならば、(上述のように)血流を通して「乳酸」を回収して肝臓まで運び、肝臓でブドウ糖に再生して再び血中に放出することで再利用する、という機能があるのです。これは、生化学で立証されている事実です。

 このように、身体には『乳酸を無害化して再利用する』という「生体運営の仕組み」が備わっているのです。
 人間の身体は、糖質(ブドウ糖)を過剰摂取し始めたばかりなので、体内に有り余った余計な糖質(ブドウ糖)を排除して無害化する仕組みをまだ持ち得ていませんが、「乳酸」の扱いには太古の昔から経験的にこなれていますので、『乳酸を無害化して処理する』ことに関しては得意中の得意なのですね。


 もうお分かりでしょうけれども、癌細胞それ自体が「体内に有り余った余計な糖質(ブドウ糖)を排除して無害化する仕組み」を備えた器官なのです。つまり、(上述しましたように)癌細胞とは『糖質制限装置』であり、『体内の糖質量(ブドウ糖量)を調整する装置』として生体を守るために体内に新しく設けられた安全装置である、ということです。癌細胞は『体内で代謝されずに残存している余計な糖質(ブドウ糖)の無害化装置』です。

 「癌細胞の唯一の餌はブドウ糖」です(ブドウ糖は「癌の最大のエサ」」カテゴリを参照してください )。
 しかし、これは、体内で代謝されずに有り余って残存しているブドウ糖を癌細胞にかき集めて無害化するための『方便の姿』なのでしょう。
 私は以前「癌細胞のミトコンドリアの中には、異常があるわけではないのに、なぜか活動していないものがある」という資料を見たことがあります。これはおそらく、癌細胞のミトコンドリアのみなさんも「体内に有り余っている余計な糖質(ブドウ糖)の無害化」に協力するために、その活動を休止してくれているのでしょう。
 ただ、これは、人間に益成す「善玉癌細胞」に限ります。
 これに属さない、人間に害成す「悪玉癌細胞」もあります(身体の酸化が進行した結果として現われる癌)。
 癌細胞にも、いろいろな役割を持った様々な癌細胞があると見るべきです。

 この内容は、「癌は、糖質(ブドウ糖)の『スカベンジャー(清掃者)』である!」記事の冒頭の「黄囲み部分」にてお話ししました『癌細胞とは、生命を脅かす糖質量(ブドウ糖量)を処理するためのスカベンジャー清掃者)である』に重なるものです。こちらの記事のほうも併せて参照されてみてください m(__)m

 以上は、私が勝手に感じている、人間生命が自己の生命を守るために連携して体内に顕わした「癌という生き物」のお話です。癌患者のみなさんにも、ここから何か感じて頂けたらと思います m(__)m



 当記事でご紹介させて頂きます内容は、人間とは何か・・、心とは何か・・、私という存在は一体何なのだろうか・・、こういうところを感じる取ることのできる人でなければ、当記事を読んでも、凡そクソつまらないと思います・・。
 「だから、それが一体、何だと言うの?」で終わると思いますね(笑)
 それはそれで良いと思います♪

 私は個人的には、「自分の本心」「自分の本性」を自分であぶり出し、「本当の自分」を理解するところからが、自分の人間人生の「本当のスタートライン」となる、と思っていますので、「私は誰か?」という「シンプルな問いかけ」によって覚醒したラマナ・マハルシのこの言葉は大変貴重でためになるのです。

 ラマナ・マハルシは、「本当の自分」「本当の私」のことを『真我』と呼んでいます。
 「本当の自分」「本当の私」に興味のある方は、ご一読されてみるのも決して損はないと思いますよ♪
 当記事から何か感じ取って頂けたなら幸いに思います m(__)m

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 「私は誰か?」 ~ ラマナ・マハルシの教えの精髄が説かれている対話集
 【「大空からのメッセージ ∞ ハートがすべて」
より 】


 沈黙の聖者 ラマナ・マハルシ

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ラマナ・マハルシ


 「ラマナ・マハルシ」は、近代インド最大の覚者と言われている人物です。
 自らの覚醒体験をもとに、『真我探究』『真我実現』を、言葉により、沈黙により伝え続けました。

 ラマナ・マハルシは、彼の教えを理解するには「私は誰か?」という対話集を読むだけで十分である、と語っています。
 私はこの対話集を読み、「私は誰か?」と自分に徹底的に問い続けることになりました。
 すると、2ヵ月足らずのうちに、ハートから溢れ出すものすごい至福のエネルギーに飲み込まれ、
 ハート全身が四方八方に大きく開かれ、思考停止状態になり、

 「私はずっと広がりきって、静まりきっているだけ」
 「私は無限に広がる静寂の空間として、ずっと存在している」

 という、明晰な目覚め自覚に導かれることになりました。

 「私は誰か?」と自分自身に徹底的に問い続けると、ハートの一点に意識エネルギーが集中するようになります。
 そして、ハートから至福のエネルギーが溢れ出して、ハートが開き、
 広大無辺な静寂である自分がありありと現われてきます。

 ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と自分自身に徹底的に問い続ける実践を、
 『アートマ・ヴィチャーラ』『真我探究』と呼んでいます。

 ラマナは、

   全宇宙がハートの中の一つの小さい穴の中に収容されています。
    ハートの中の小さな穴はいつも閉じられたままですが、それは『アートマ・ヴィチャーラ』によって開かれます。

 と語っています。

 私は、ラマナのこの言葉を実体験することになりました。
 「あるがままに ~ ラマナ・マハルシの教え」の巻末に収録されている対話集「私は誰か?」を紹介させていただきます。



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 「私は誰か?」

 
生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。

 誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。

 そして、幸福だけがその愛の源なのである。

 それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りの中で体験される幸福を手に入れるためには、
 人は自分自身を知らねばならない。

 そのためには「私は誰か?」という問いで探究する知識(ジニャーナ)の道が最も重要な方法である。



(1)私とは誰でしょうか?

 七つの要素からなる粗大な身体、
 それは私ではない。

 五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚は、
 それぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが、
 私はそれらではない。

 五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ、
 話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが、
 私はそれらではない。

 五つの生気、すなち、プラーナなどは呼気などの五つの働きをするが、
 それは私ではない。

 ものごとを考える心でさえ、
 私ではない。

 対象の印象だけが刻み込まれた無知も、
 対象物も働きもない無知も、
 私ではない。


       訳注1七つの要素 栄養液血液脂肪精子
       訳注2五つの生気 パンチャ・プラーナ(身体で働いている五つのプラーナ
                 (1)アパーナ(下降する氣
                 (2)プラーナ(上昇する氣
                 (3)サマーナ(食べ物をアパーナに運ぶ氣
                 (4)ヴィヤーナ(プラーナとアパーナをとらえる氣
                 (5)ウダーナ(食べ物や飲み物を上下に運ぶ氣



(2)もし、私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

 今述べたことすべてを「これではない」「これではない」と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒 ―――
 それが私である。



(3)覚醒の本性とは何でしょうか?

 覚醒の本性は、存在 意識 至福 である。



(4)真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

 「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我は実現されるだろう。



(5)世界が(実在として)存在しているときでさえ、
   真我が実現されるということはないのでしょうか?


 ないだろう。



(6)なぜでしょうか?

 見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。

 錯覚である蛇という知識がなくならない限り、実体であるロープという知識は得られない。

 同じように、世界が実在であるという確信がなくならない限り、実在である真我の実現は得られないだろう。



(7)対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

 すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき、世界は消え去るだろう。



(8)心の本性とは何でしょうか?

 「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。

 心はすべての想念を起こさせる源である。

 想念を離れて心のようなものは実在しない。

 それゆえ、想念が心の本性である。

 想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。

 深い眠りの中に想念はなく、世界もない。

 クモが自分の中から糸を出し、それをまた自分の中に引き入れるのと同じように、
 心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身の中へ還元させる。

 真我の中から心が外に出るとき、世界が現われる。

 それゆえ、世界が(実在として)現われているとき、真我は現われない。

 人が絶え間なく心の本性を探究し続けるならば、心は真我をあとにして死滅するだろう。

 「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。

 心は常に何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。

 それは、ひとりであることができない。

 微細身、あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。



(9)心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

 身体の中に「私」として立ち現われるものが心である。

 もし、身体の中のどこに「私」という想念が最初に現われるかを探究するなら、
 それはハートの中に現われることが発見されるだろう。

 そこが心の起源となる場所である。

 絶えず「私」「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。

 心の中に現われるすべての想念の中で最初に現われるのは「私」という想念である。

 この想念が現われたあとにのみ、他の想念が現われる。

 二人称と三人称の人称代名詞が現われるのは、一人称が現われたあとのことである。

 一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。



(10)どうすれば心は静かになるのでしょうか?

 「私は誰か?」と尋ねることによってである。

 「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。

 そして、燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、
 ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。

 そのとき、真我は実現されるだろう。



(11)「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つには、どうすればよいでしょうか?

 他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
 「この想念は誰に起こったのだろうか?」と尋ねるべきである。

 どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。

 想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。

 それに対して現われる答えは「私に」だろう。

 そこですぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。

 このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。

 微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現われる。

 心がハートの中にとどまっていれば、名前と形は消え去る。

 心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。

 心をハートから外へ出させることは「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。

 このように、心がハートの中にとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、
 永遠に存在する真我が輝き出す。

 人は何をするときにも「私」という自我性なしにそれをすべきである。

 もし、そのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。



(12)心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

 探究以外に適切な方法はない。

 他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現われるだろう。

 呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間のことだけであり、
 呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。

 心も呼吸も、その源は同じである。

 想念とは、実は心の本性である。

 「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。

 自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。

 そのため、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も制御される。

 けれども、深い眠りの中では、心は静かでありながら呼吸は止まっていない。

 これは、身体が維持されるように、
 そして、死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。

 目覚めの状態とサマーディにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。

 呼吸は心の粗大な姿である。

 死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。

 身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。

 それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず、
 心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

 神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も、心を静める助けに過ぎない。

 神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて、心は一点に集中される。

 心は常にさまよい続けるだろう。

 鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、
 心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。

 心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。

 だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。

 そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。

 すべての規則制限の中でも、適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が最上のものである。

 これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我探究の助けとなるだろう。


  ブログ管理人ラマナ・マハルシは「清らかな食事を適切な量食べることが最上である」と言い、
          清らかな食事として、パン野菜果物ミルクを挙げていました。
          そして「肉食で悟りを開くことは不可能ではないが、それは難しく、避けるほうが賢明である」として、
          肉卵は一切食べることがなかったのです。



(13)心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。
    いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?


 真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。



(14)数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、
    純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?


 可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続けるべきである。

 たとえ、人が大罪人であるとしても、
 「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。

 「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。

 そうすれば、確実にうまくいくだろう。

 ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。

 心はただひとつだ。

 幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。

 心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。

 心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう、戒められなければならない。

 他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。

 欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。

 人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。

 もし、これらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。

 自己が現われると、すべてが立ち現われ、自己が静まれば、すべては静まる。

 謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。

 心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。



(15)探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?

 心の中にものごとの印象がある限り、「私は誰か?」と尋ねなければならない。

 想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって破壊されるべきである。

 もし、真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば、それだけで想念は消滅するだろう。

 要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。

 もし、敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば、要塞は我々の手中に落ちるだろう。



(16)真我の本性とは何でしょうか?

 真実、存在するのは真我だけである。

 世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、真我の内に現われるものである。

 これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。

 「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。

 それは沈黙と呼ばれる。

 真我そのものが世界であり、
 真我そのものが「私」であり、
 真我そのものが神である。

 すべてはシヴァ、真我である。



(17)すべては、神のなせるわざではないのでしょうか?

 欲望も、決意も、努力もなしに太陽は昇る。

 太陽がただそこに存在するだけで日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。

 磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人々が三つの宇宙的機能や五つの神聖な活動に支配され、

 それぞれのカルマに従って行為し、そして休息するのは、ただ神が存在しているという美徳によるものである。

 神は何の意思も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。

 それは、世間の行為が太陽に影響を与えず、
 すべてに遍在するエーテル(虚空)が他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。


       訳注3三つの宇宙的機能 維持破壊
       訳注4五つの神聖な活動  パンチャ・ヤジュニャと呼ばれるヒンドゥー教徒の義務
                 (1)「ヴェーダ」の学習
                 (2)祖霊への食物の供養
                 (3)ホーマの献火
                 (4)すべての生き物への食物の供養
                 (5)人間への供養



(18)帰依者の中で最も優れているのは、どのような人でしょうか?

 神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最も優れた帰依者である。

 自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、
 ひたすら真我の内にとどまっていることである。

 どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。

 神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、
 なぜ、我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?

 我々は列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。

 列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。

 荷物を下ろして安心しなさい。



(19)無執着とはどういうことでしょうか?

 想念が起こると共に、その起こったまさにその場所で、あますことなく完全に消滅させること、それが無執着である。

 真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、
 誰もが無執着と共に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。



(20)神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

 神やグルは解放への道を示すだけだろう。

 神やグルが人を解脱の状態に連れて行くわけではない。

 実際は、神とグルとは異なるものではない。

 トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、
 グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見捨てられることはないだろう。

 けれども、ひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、
 解脱に達しなければならない。

 人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。

 ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?



(21)解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素を探究する必要はあるのでしょうか?

 ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何であるか調べたりする必要がないように、
 真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分析して数えたりする必要はない。

 彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素のすべてを払いのけることである。

 世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。



(22)目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

 目覚めている間は長く、夢を見ている時間は短い。
 これより、他に何の違いもない。

 目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢の中では真実に見える。

 夢の中では、心はもうひとつの身体をとっている。

 目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想念、名前、形は同時に現われるのである。



(23)解脱を願うものにとって、本を読むことにはどんな価値があるでしょうか?

 すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと述べている。

 それゆえ、心を静かに保つべきだということが聖典の最終的な教えである。

 ひとたび、これが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。

 心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問い続けるべきである。

 この探究が、どうして書物の中でできるだろうか?

 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。

 真我は五つの鞘の内にあるが、書物はその外にある。

 真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、
 それを書物の中に求めるのは無駄なことである。

 いずれは、学んだことすべてを忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。


       訳注5五つの鞘  パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘
                 (1)アンナーマヤ・コーシャ(身体の鞘
                 (2)プラーナーマヤ・コーシャ(生気の鞘
                 (3)マノマヤ・コーシャ(心の鞘
                 (4)ヴィジーニャーナマヤ・コーシャ(知性の鞘
                 (5)アーナンダマヤ・コーシャ(至福の鞘



(24)幸福とは何でしょうか?

 幸福とは、真我の本性そのものである。

 幸福と真我は別のものではない。

 世界のいかなるものごとの中にも、幸福はない。

 我々は無智ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。

 心が外へ出て行くと、不幸を体験する。

 心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、
 真我である幸福を楽しむのである。

 同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、
 あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、
 心は内面に向かい、純粋な真我を楽しむのである。

 このように、心は休むことなく動き回り、真我からさまよい出ては、また戻ってくるということを繰り返している。

 木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。

 灼熱の太陽の中を歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。

 木陰からわざわざ猛暑の中を行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。

 賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。

 同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。

 その反対に無智な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさまよい歩き、
 つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。

 実際には、世界と呼ばれているものはただの想念に過ぎない。

 世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験するのである。

 世界が現われると、不幸を味わうのである。



(25)洞察力(ジニャーナ―ドリシュティ)とは何でしょうか?

 静寂にあることが洞察力と呼ばれている。

 静寂にあるということは、真我の中に心を帰り着かせることである。

 過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。



(26)無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

 無欲が智慧である。

 二つは別のものではない。

 それは同じである。

 心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。

 智慧とは、何の対象物も現われないことを意味している。

 言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、
 真我を決して離れないことが智慧である。



(27)探究と瞑想の違いは何でしょうか?

 探究とは、真我の中に心をとどめておくことである。

 瞑想とは、自己をブラフマン、つまり、存在 意識 至福 であると思いなすことである。



(28)解脱とは何でしょうか?

 束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。







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