今回は、最初に「2012年の黙示録」より、篠原佳年氏の著書「治癒力創造 ~ 心のインターネットにアクセスしよう!」の抜粋からご覧ください。


 
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治癒力創造

篠原佳年(著) 主婦の友社出版  1997年刊



人の誕生もまた自然治癒力の表れ

 自然治癒力の考え方をさらに突き進めていくと、人が生まれてくるのも自然治癒力の一つの表れであり、死んでいくこともまた、自然治癒力の一つの表れであるということに行き着きます。
 花が咲いて散るまでは、一つのシステムによって流れています。
 でも、みなさんは花が咲いている時が最高の時で、散っていくのは寂しいことだと思っているでしょう。
 だから、多くの人はガンに罹ったりして死を宣告されると「私は散りたくない」と思います。

 しかし、散りたくないと思うこと自体、散るのを早めていることになります。
 植物が花を咲かせるのは、ライフコースという一定の周期の中で起こる現象です。
 種を蒔いて水を毎日あげていれば、春になるとかならず芽を出し花を咲かせ、ある期間が過ぎれば花が散り、枯れていきます。花を咲かせるのにもエネルギーが必要ですし、花を散らせて枯らせていくのにもエネルギーが必要です。

 勘違いしてはいけないのは、エネルギーがなくなったから散るわけではなくて、花を咲かせたものと同じエネルギーが単に姿を変えているだけなのです。その本質に気がつかずに、花が咲いた時が最高だと思っている人は、自分が人生の何かに成功しないと満足していられないし、健康にならなければいけないし、お金を儲けなければならない、いい家に住まなければならない、自分だけ特別にならなければならない、・・・・・・ と思っている人です。


 多くの人は、自分の身体が永遠に若く、きれいで、かつ健康でありたいと思っているのですが、そのように思うこと自体が自然の法則に逆行していることです。また、そのような考えをすること自体がストレスを生み、自分を歪めています。
 花が咲いては散り、人が生まれては老いていく。
 すべてのものが形を変えるように、世の中には、何一つとして変化しないものはありません。
 すべてが必ず移り変わっていきます。

  花は、病気になったから散るのではありません。人間は、なぜ病気で死ぬのでしょう。
 病気にならなくても、天寿を全うして、いつかは人間は死ぬのです。いつかは壊れていくのです。
 身体が壊れることもまた、自然治癒力そのものなのです。
 年をとって頭が禿げること、つまり、老化も自然治癒力の一つの表れなのです。

 大切に育てている木に咲いた花がいつもより数が少なかったり、ひ弱な感じがした時、あなたは「ああ、今年は日照りが続いたから、水が足りなくてこうなったんだな」などと考えるでしょう。
 また、ペットの犬や猫が病気になったりしたら、どうしてそうなったのか原因を追求するでしょう。
 花やペットに関することはいろいろと分析して何が原因かを見つけようとしますが、自分のことに関しては何も分からない、というか、分かろうとしません。


  最近は宗教ではない精神世界に興味のある人が増えてきたせいか、病気になるのは意識が原因だから「心で思ったら、どんな病気の人でも治るのだ」と、その世界のことだけで話を結論づけますが、それはそれで話はなんとなく分かったような気持ちになります。しかし、それだけでは充分ではありません。
 花だったら、やはり日照りが続いて、何ヵ月も何年も水が足りなかったり栄養になるものがなければ、いつまで経っても花は咲かないかもしれません。犬や猫、小鳥などのペットだったら、飼い主の愛情や躾が問題かもしれません。


 人間の身体も、自然の中で生きているのですから、同じように環境からも大きな制限を受けています。
 精神的なことだけではなくて、物理的なところでも影響を受けています。
 だから、それを踏まえた上で、「目に見えないもの」と「目に見えるもの」とを一緒にしなければならないのです。

 今までは、「目に見えるもの」の世界のことだけに偏っていましたが、最近になって急に「目に見えないもの」だけに偏って物事を考えようとする傾向が強くなり始めました。
 これでは、白か黒の「どちらかだ」という両極端の考え方になってしまい、結局は「目に見えるもの」だけで行なってきたことと同じ結果になってしまいます。

 そうではなく、「見えているもの」も「見えないもの」も、すべてのものを一緒にして考え生活していけば、視野はもっと大きく広がります。自分が関わるすべてのものを大きな視野で捉えられることになります。
 そうすることによって、人間というものがもっと深い意味を持った存在だということに気がつくはずです。






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 この図書をご紹介しましたのは、この後半の部分が目に留まったからです。

    最近は宗教ではない精神世界に興味のある人が増えてきたせいか、
     病気になるのは意識が原因だから「心で思ったら、どんな病気の人でも治るのだ」と、
     その世界のことだけで話を結論づけますが、それはそれで話はなんとなく分かったような気持ちになります。
     しかし、それだけでは充分ではありません。
     花だったら、やはり日照りが続いて、何ヵ月も何年も水が足りなかったり栄養になるものがなければ、
     いつまで経っても花は咲かないかもしれません。
     犬や猫、小鳥などのペットだったら、飼い主の愛情や躾が問題かもしれません。


 この部分は、私はとても大切なことであると思います。
 篠原佳年氏はさらにこのように言われていました。
 
    人間の身体も、自然の中で生きているのですから、同じように環境からも大きな制限を受けています。
     精神的なことだけではなくて、物理的なところでも影響を受けています。
     だから、それを踏まえた上で、「目に見えないもの」と「目に見えるもの」とを一緒にしなければならないのです。
     今までは、「目に見えるもの」の世界のことだけに偏っていましたが、
     最近になって急に「目に見えないもの」だけに偏って物事を考えようとする傾向が強くなり始めました。
     これでは、白か黒の「どちらかだ」という両極端の考え方になってしまい、
     結局は「目に見えるもの」だけで行なってきたことと同じ結果になってしまいます。
     そうではなく、「見えているもの」も「見えないもの」も、すべてのものを一緒にして考え生活していけば、
     視野はもっと大きく広がります。
     自分が関わるすべてのものを大きな視野で捉えられることになります。
     そうすることによって、人間というものがもっと深い意味を持った存在だということに気がつくはずです。


 この中の『今までは、目に見えるものの世界のことだけに偏っていましたが・・・』と『白か黒の「どちらかだ」という両極端の考え方』の部分で私が思い出しますのは、「益川敏英」博士の恩師である「坂田昌一」博士のこの言葉です。


         兼 聴 則 明  あわせきけば、すなわち、あかるく

         偏 信 則 暗  かたよりしんずれば、すなわち、くらし

Sakata_Shoichi
坂田昌一 博士
京都帝国大学出身物理学者元「名古屋大学」教授



 これは『兼わせ聴けば 則ち 明るく、偏り信ずれば 則ち 暗し』というものです。
 坂田博士が言うには、この言葉にはこういう深い意味があるそうです。

     広く意見を兼()わせ聴けば、世の中は明るい方向へ進んで行く。
      何か一方に(一つに)偏り信ずれば、世の中は暗い方向へ進んで行ってしまうだろう。


 益川博士は、恩師である坂田博士のこの言葉を説明して、こう強調していました。

    「これ()」と「これ()」がある。
     「こちら()」だけでもいけない、「こちら()」だけでもいけない。
      どちらも兼()わせ聴いたら、第三の立場が生まれる。

     「こっち()」だけ・・、「こっち()」だけ・・、よりも、
      もっと高みに進んで行けるんだ。 )に進んで行ける


 つまり、益川博士はこう言われていました。

     これ()だけを信ずるのではいけない。
      また、これ()だけを信ずるのでもいけない。
      偏りが出てきて危険である。

     「これ()だけぇ~」や「これ()だけぇ~」になってしまうことも多いが、そうではなくて、
     「これ()」も「これ()」も、どちらも兼()わせ聴いて融合させれば、
      第三の立場『()+()』が生まれて、もっともっと高みに進んで行けるんだよ。


 私は、この『兼わせ聴けば 則ち 明るく、偏り信ずれば 則ち 暗し』という言葉が好きなんです。
 まさに、その通りだと思います。

 篠原佳年氏の言われていることと重ねれば、私は「見えているもの」も「見えないもの」も両方を兼わせ聴きたいのです。
 そうしないと、本当に見える範囲が狭まるからです。
 私が個人的に「霊学(霊的なもの)」を重視するのも、物質的な「人間の目に見えているもの」をより深く理解するために、霊的心的な「人間の目に見えていないもの」を兼わせ持ちたい、という思いがあるからです。
 実際に「霊学」に出会ってからは、今までは気づけなかった奥深いものに気づけるようになりました。


 また、坂田博士に重なる言葉として、「新渡戸稲造」の有名な著書「武士道」の中の最初の緒言における「ウィリアム・エリオット・グリッフィス」のこのような言葉があります。

     実際、私は井戸の蛙たるを免れたことを喜んだ。
      それの墓穴と異なるのは、ただ深さだけだ。
      比較こそ、学問と教養の生命ではないか。
      言語、道徳、宗教、礼儀作法の研究において、
      「一つしか知らぬ者は、一つをも知らぬ」と言われるのは真理ではないか。




 彼は明治の初めに日本へ渡来し、欧米にはない日本の文化や 精神(大和魂)に惚れ込み、当時のアメリカ社会に日本を紹介する文筆、講演活動を続けた人物です。有名な「ミカド」などを著しています。




 欧米社会にはない「日本の宗教観自然観精神礼節」に感銘を受け、『私は井戸の蛙たるを免れたことを喜んだ』とまで言っています。これは「西洋文化だけでは偏ってしまうことが実に多い。西洋の文化だけでなく、日本の文化にも触れることによって、私は井戸の蛙井の中の蛙、大海を知らず)にならずに済んだのだ」と言っているのでしょう。

 また『比較こそ、学問と教養の生命ではないか』とも言われていますが、これは「多方面の要素を比較検討していってこそ、そのものの本質が見えてくる」と言われたのでしょう(彼の場合、西洋と東洋、両方の比較のことを言っています)。


 「ウィリアム・エリオット・グリッフィス」が残した、この言葉・・・


「一つしか知らぬ者は、一つをも知らぬ」と言われるのは真理ではないか。



 私はこの言葉も大好きですね。

 『一つしか知らぬ者は、一つをも知らぬ』、これは本当にその通りだと思います。
 これは「一つしか知らない人は、結局、その一つすら理解できていないものなのだ」という意味でしょう。
 私は、これが今でも、世間には多くあると思っています。

 私は個人的に、どうも「これだけ~!」的な思考感覚が苦手でして、どのような物事(事象)に対しても「これだけ主義」「それだけ主義」に疑問を感じてしまいます。
 西洋医学生化学栄養学「だけぇ~」の思考に偏る世の傾向にも、私は疑問ばかりです。
 西洋医学生化学栄養学という学問「だけ」では説明のつかない人体の現象が世界中にあるというのに・・・。



 結局、食に関して言えば、『一つしか知らぬ者は、一つをも知らぬ一つしか知らない人は、結局、その一つすら理解できていないもの)』の言葉のように、「西洋医学的な視点」だけでも、「生化学的な視点」でけでも、「栄養学的な視点」だけでも良くありません。当然、「食養学東洋医学自然医学的な視点」だけでも、「霊学的な視点」だけでも良いとは言えないはずです。

 やはり、坂田博士の言われた『兼わせ聴けば 則ち 明るく、偏り信ずれば 則ち 暗し』という思考意識が非常に重要であると、私は心得ます。どちらもバランスよく大事に見つめていくべきです。


 例えば、玄米菜食だけで長寿を得た人もいれば、肉食をして長寿を得た人もいるのです。
 また、玄米菜食だけでは病気になって早死にした人もいれば、肉食をしていて病気になって早死にした人もいるのです。
 また、少食や断食で病気を治した人もいれば、少食や断食に失敗して寿命を削ってしまった人もいます。
 また、肉食を一切しなくても無病息災の民族や日本人もいれば、肉食をしないでいたら身体が衰弱してしまった日本人も実際にいるわけです。

 「玄米菜食であれば病気をしない」だとか、「肉食をしなければ病気にならない」だとか、
 「玄米菜食だけだと病気になる」だとか、、「肉食をすると病気になる」だとか、「肉食をしないと病気になる」だとか、
 「少食にすれば、必ず病気が治る」だとか、「少食は絶対に危険」だとか、
 「断食をすれば、必ず病気が治る」だとか、「断食は絶対に危険」だとか、
 こんな下らぬ言葉を発していてはいけません。これは決め付け過ぎです。
 実地ではこれらのうちの「どれか一つ」が現われているわけではなく、これらのすべてが実地に現われているのです。


 ここは、もう一度、重ねて言いいます。

 穀物食と菜食だけで無病息災に長寿を得た人もおり、肉食をして無病息災に長寿を得た人もいます。
 穀物食と菜食だけでは体調を崩した人もいれば、肉食を止めてから体調が良くなった人もいます。
 少食療法や断食療法によって病気を治した人も実際にいれば、少食療法や断食療法に失敗して寿命を縮めた人も実際にいるのです。

 これらの「どれか一つ」に的を絞り、自分の了見を狭く設定すべきではないと、私は思います。
 これらはすべてバランスよく見つめていきましょう!

 玄米菜食は、今や世界中で(欧米で)医学的生化学的栄養学的に認められています。
 また、肉食の有効性も、世界中で(欧米で)医学的生化学的栄養学的に認められています。

 ただ、癌研究報告において『肉製品(獣肉食乳製品は「癌の促進剤」となる』と専門家から指摘されており、これに賛同する医学博士や医師が世界中に多数いる以上、癌患者の食事に対して肉製品(獣肉食乳製品を採用するのは、やはり慎重になったほうが良いと言えるのです。
ここは「肉食・乳製品の真実(肉製品、牛乳・乳製品は癌を進行させる食品)」カテゴリを参照してください

 また、肉食に関しましては「医学的生化学的栄養学的以外の見解」もありますので、あとは「当人の考え方」に依るわけです。ご自分の人生に「何を求めているか」ですね。
 肉食問題につきましては、医学的生化学的栄養学的な視点もあり、地球規模の環境問題的な視点もあり、道徳的な視点もあり、霊的な視点だってあります。ご自分が肉食について、一体、何を考え、何に一番の価値を見出し、何に重点を置くかで、個人個人の「肉食の是非」が決するのです。
 その人の体質、その人の意識、その人の思考、その人の心質、その人の心身のすべてを考慮しなければならないのです。
 最後は、当人の『自己責任』による『自己判断』に依ります。
 
 ですから、私は当ブログサイトにて自分の意見をありのままに述べていますが、結局、私はいつも最後的には「ご自分が納得できる方法を選んでください」とお話させて頂くしかありません・・・。
 

 いずれにしましても、私は例えどのような分野においても、「決め付け」や「これだけぇ~思考」や「1点絞り」や「偏った判断」をすることを嫌い、恐れます。これは危険だとさえ思います。

 私は当記事にてお話しさせて頂きました『兼わせ聴けば 則ち 明るく、偏り信ずれば 則ち 暗し』や『比較こそ、学問と教養の生命ではないか』や『一つしか知らぬ者は、一つをも知らぬ』といった考え方が大事であると肝に銘じています。


 最後になりますが、確か、坂田博士は癌で病床に伏し、癌と闘っている中でこの『兼わせ聴けば 則ち 明るく、偏り信ずれば 則ち 暗し』という言葉が自分の中から出てきたそうです。坂田博士が癌で亡くなる最後に残された言葉、自分の科学者人生の最後にたどり着いた言葉が、この『兼わせ聴けば 則ち 明るく、偏り信ずれば 則ち 暗し』という名言なのです。

 私は今でもこの言葉を大事にし、人生の教示として自分の中にこの言葉をいつも大切に持っています。
 今も坂田博士に感謝しています m(__)m