この記事は、癌治療における「本(もと)」と「末(すえ)」の関係を把握して、癌治療における重要な自然療法の位置をより明確にご理解して頂こうと思って作成しましたが、あまりに真面目に書き過ぎてしまい、少しカチコチな内容になってしまいました・・・(涙)。
 これは癌治療において大事な認識なので私なりに一生懸命に書いてみましたが、もし、読んでいて意味がよく分からない場合には、申し訳ないですけれど何度か読み直してみて頂いて、ちょっと読み込んでみて頂きたいです。
 よ・・、よろしくお願いします m(__)m




 中国古典に『大学』『中庸』という書物があります。今回ご紹介させて頂きますのは『大学』のほうです。

 この『大学』『中庸』はもともと『礼記らいき)』の一篇であまり有名ではなかったのですが、朱子朱熹朱子学の創始者)によって儒教の4つの経書(四書大学中庸論語孟子)に組み込まれて有名になった名書で、儒学の基本です。

 「薪を背負いながら本を読んで歩く姿」で有名な「二宮尊徳」が愛した書物が『大学』『中庸』『論語』でした。
 『報徳記』には「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず」とあります。
 よく小学校の校庭に建てられている尊徳像などが有名ですが、その尊徳少年が手に持っている書物が『大学』です。

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▲ 二宮尊徳(通称金治郎



尊徳少年が手に持つ書物が『大学』(振薪読書図)

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誰もが見た事のある、有名な尊徳像
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珍しい「シットダウン」バージョン
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 二宮尊徳が少年時代に働きながら夢中に読み込んだ書物が『大学』でした。
 この『大学』の第一章には、物事の「本(もと)」と「末(すえ)」の関係が明瞭に示されています。

 細かな解説は省きますが、この『大学』の第一章はこのように始まります。
一応お話ししますと、ここでは中国古典のお話をしたいのではなくて、この『大学』という中国古典に絡めて「食養のお話」をしたいと思いますので、中国古典が苦手な方も、どうぞご一読されてみてください



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 『大学』第一章

 大学の道は、明徳(めいとく)を明らかにするに在り、
 民を親しましむるに在り、
 至善(しぜん)に止まる(とどまる)に在り。
 止まる(とどまる)を知りて后(のち)定まる有り、
 定まりて后(のち)能く(よく)静かに、
 静かにして后(のち)能く(よく)安やすく、
 安くして后(のち)能く(よく)慮り(おもんぱかり)、
 慮り(おもんばかり)て后(のち)能く(よく)得()。
 物に本末あり、事ことに終始あり。
 先後(せんこう)する所を知れば則ち(すなわち)道に近し。

 古え(いにしえ)の明徳(めいとく)を天下に明らかにせんと欲する(ほっする)者は、先ず(まず)その国を治む。
 その国を治めんと欲する(ほっする)者は、先ず(まず)その家を斉う(ととのう整う)。
 その家を斉えん(ととのえん)と欲する(ほっする)者は、先ず(まず)その身を脩()む。
 その身を修()めんと欲する(ほっする)者は、先ず(まず)その心を正す。
 その心を正さんと欲する(ほっする)者は、先ず(まず)その意を誠(まこと)にす。
 その意を誠(まこと)にせんと欲する(ほっする)者は、先ず(まず)その知を致む(きわむ窮む極む)。
 知を致むる(きわむる)は、物(こと)に格る(いたる至る)に在り。

 物(こと)格って(いたって)后(のち)知至む(きわむ)。
 知至まりて(ち、きわまりて)后(のち)意誠なり(まことなり)。
 意誠にして(い、まことにして)后(のち)心正し。
 心正しくして后(のち)身修()まる。
 身修()まりて后(のち)家斉う(ととのう)。
 家斉いて(ととのいて)后(のち)国治まる。
 国治まりて后(のち)天下平らかなり。

 天子より以て(もって)庶人に至るまで、
 壱(いつ)に是れ(これ)皆(みな)身を修()むるを以て(もって)本(もと)と為す(なす)。
 その本(もと)乱れて、末(すえ)治まる者は否ず(あらず)。
 その厚かる所()き(べき)者(こと)薄くして、その薄かる所()き(べき)者(こと)厚きは、
 未だ(いまだ)これ有らざるなり。
 此れ(これ)を本(もと)を知ると謂い(いい)、此れ(これ)を知の至まり(きわまり)と謂う(いう)なり。


振り仮名を最小限にしたバージョン
 大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まる(とどまる)に在り。
 止まるを知りて后(のち)定まる有り、
 定まりて后能く(よく)静かに、
 静かにして后能く安やすく、
 安くして后能く慮り(おもんぱかり)、
 慮りて后能く得。
 物に本末あり、事ことに終始あり。
 先後する所を知れば則ち(すなわち)道に近し。

 古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。
 その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉う(ととのう)。
 その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を脩()む。
 その身を修()めんと欲する者は、先ずその心を正す。
 その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。
 その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致む(きわむ)。
 知を致むるは、物(こと)に格る(いたる)に在り。

 物格って后(のち)知至む。
 知至まりて后意誠なり。
 意誠にして后心正し。
 心正しくして后身修()まる。
 身修()まりて后家斉う。
 家斉いて后国治まる。
 国治まりて后天下平らかなり。

 天子より以て庶人に至るまで、
 壱に是れ皆身を修()むるを以て本と為す。
 その本乱れて、末治まる者は否ず(あらず)。
 その厚かる所()き(べき)者(こと)薄くして、その薄かる所()き者厚きは、未だこれ有らざるなり。
 此れ(これ)を本を知ると謂い、此れを知の至まりと謂うなり。


語句の解説
大学の道 ・・・ 高度な教学(大人の学)。教学の内容を踏み行うべき道筋。教学の在り方。
明徳(めいとく)・・・ 輝かしい立派な徳。光輝発揚する聖人の徳。顕明なる至徳。
明徳を明らかにする 【修己】
  ・・・ 輝かしい立派な徳、聖人の徳として伝承されてきた徳を、我が身に学んで我が身に付け、一層輝かしく発揮する事。
    輝かしい徳を学んで、それを一層輝かしてゆく事。
民を親しましむる 【治人】
  ・・・ 統治者の対象としての民衆を互いに親しみ和合させて、平和な暮らしを得させる事。
    庶民が親愛の情を持って結合するようにする事。
   「民を親しましむる」は、「明徳を明らかにする」事をもって初めて実現できる。
   「明徳を明らかにする」「民を親しましむる」の流れ。
至善(しぜん) ・・・ 最高善。
止まる(とどまる
 ・・・ 自らの判断でそこに居り、そこを守って他所に移らない事。古注に「自ら処()るなり」とある。
至善(しぜん)に止まる(とどまる
 ・・・ 最高善の貴さを自ら理解し、自らの判断で最高善に居り、最高善を守って他所に移らない事。
物(こと)に格る(いたる至る
 ・・・ 事物の本質としての理(ことわり仕組み)を窮める事。物を「事」、格を「至る」の意に読むのは常訓。
知を致む(きわむ窮む極む)・・・「物に格る」によって、知識を押し広める事。
知を致むる(きわむる)は、物(こと)に格る(いたる)に在り
 ・・・ 知能、すなわち、道徳的判断を明晰にするには、事物について〔善悪を〕確かめる事だ。
物(こと)格って(いたって)后(のち)知至む(きわむ
 ・・・ 日常的な実践を通じて善悪が確かめられ、それによって知能をとぎすます事。



 大学で学問の総仕上げとして学ぶべき事は、輝かしい徳を身に付けて、それを〔世界に向けてさらに〕輝かせる事であり、〔そうした実践を通して〕民衆が親しみ睦み(むつみ)合うようにする事であり、こういしていつも最高善の境地に踏み止まる事である。
 踏み止まるべきところがはっきりとわかってこそ、しっかり落ち着くという事になり、しっかり落ち着いてこそ〔物事に動揺しないで〕平静である事ができ、平静であってこそ安らかになる事ができ、安らかであってこそ物事を正しく考える事ができ、正しく考えてこそ〔最高善に止まるという〕目標も達成できるのだ。
 物事には根本と末端とがあり、また初め(始め)と終わりとがある。〔その事をわきまえて〕何を先にして何を後にすべきかという事がわかるなら、それでほぼ正しい道を得た事になるのである。

 古きよき時代に、輝かしい徳を世界中に発揮し〔て世界を平安にし〕ようとした人は、それに先だってまず〔世界の本である〕その国をよく治めた。その国をよく治めようとした人は、それに先だってまず〔国の本である〕その家を和合させた。その家を和合させようとした人は、それに先だってまず〔家の本である〕我が身をよく修めた。我が身をよく修めようとした人は、それに先だってまず〔一身の中心である〕自分の心を正した。自分の心を正そうとした人は、それに先だってまず〔心の中心である〕自分の意念(おもい)を誠実にしようとした。自分の意念(おもい)を誠実にしようとした人は、それに先だってまず〔意念(おもい)の本である〕自分の知能(道徳的判断)を十分に押し極めた。知能を押し極め〔て明晰にす〕るには、物事について〔善悪を〕確かめる事だ。
 物事〔の善悪〕が確かめられてこそ、初めて知能(道徳的判断)が押し極められ〔て明晰にな〕る。知能が押し極められてこそ、初めて意念(おもい)が誠実になる。意念(おもい)が誠実になってこそ、初めて心が正しくなる。心が正しくなってこそ、初めて一身がよく修まる。一身がよく修まってこそ、初めて家が和合する。家が和合してこそ、初めて国がよく治まる。国がよく治まってこそ、初めて世界中が平安になる。

 〔そこで〕天使(統治者)から庶民(一般国民)に至るまで、〔どのような身分にある人間でも、〕同じように皆、我が身をよく修める事を根本とする。その根本〔の我が身をよく修める事〕が出鱈目(でたらめ)でありながら、末端〔の国や天下〕がよく治まっているというのは、めったにない。自分で力を入れなければならない事を手薄にしながら、手薄でもよい事が立派にできているという例(ためし)は、まずないものだ。
 このように〔天下国家を目指しながらも我が身をよく修める事を第一と〕するのを、真に根本をわきまえた者と言い、このように〔根本を知り抜いて〕ある事を、知識の極みと言うのである。



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 この『大学』という中国古典はなかなか凄いもので、人間が成長していくための “心理の道程” を詳しく解説してくれているのです。人類はいつの時代も争いや戦争が絶えず、平安な社会を求めても求めても、結局、実現できませんでした。今の日本を見てください。今の日本社会は平安でしょうか? 日本で暮らしていれば、一応は市民が戦争に巻き込まれるような事は発生しない社会ではありますが、みなさんは日々、心平安に暮らされていますか? なかなか「うん♪」と答えられる日本人は少ないのではないでしょうか・・。

 日本では徴兵制度もなく、戦争は起こらないですし、戦争に巻き込まれるような事もありません。しかし、日本は戦争はないはずのに、戦争が一切起こらなくても、心平安に、幸せに(幸福度満点で)暮らせている日本人は案外と少ないのが実情であろうと思います。日本は戦争もなく、世界を代表する経済大国と成り得て物質的に非常に豊かになったはずなのに、心の平安や幸せを感じられず、日々悶々と暮らしている日本人が非常に多いのです( 参照「経済大国なのに・・・ 幸福度が低い日本人)。

 戦争が多発している国々では「戦争がなくなれば、みんな幸せに暮らせるのに・・」と思っている人が大半だと思いますが、今の日本の状況を見る限り、そうとは言えない気がします。「戦争がない」、これは人間が幸せに暮らすための最低条件であり、「戦争がなければ、みな幸せになれる」というわけでは決してないのでしょう。

 「日本では戦争がないのに、日々、心平安に、幸せを感じながら暮らせている人が少ない・・」という今の日本の状況は、実は『人間の幸せの真理を示すサンプル』だと私は思っています。今の日本の状況を見ると、“人間社会は「戦争が起こらない」というだけでは「心の平安ある暮らし(幸せを感じながら暮らせる生活)」を得るのは難しいらしい・・” という事実を垣間見れる気がするのです。
 やはり、「戦争がない」というのは人間が幸せな社会を実現するための最低条件であり、その上に「人間社会が幸せになるための真の条件」が存在しているのだと思います。

 では、「人間社会が幸せになるための真の条件」とは一体何なのか?

 人間社会の明暗を分ける「根本的に重要なもの」とは、やはり、その社会に暮らすひとりひとりの「心の在り方」なのだろう、という事が、日本の今の状況を見て私には感じられます。その国の「社会の質」とは、その国に暮らす国民ひとりひとりの「心の質」が根本です。国民ひとりひとりの「心の質」が本であり、その「国民の心の質」の末端現象として現われているのが「その国の社会の質」です。

 もし、日本の社会に悪い事件が多発しているならば、それは「日本人の心の質が悪いから」起こる事だと見なさなければなりません。人間の「行為・行動」というものは、人間の心が本となって発現した「末の現象」です。人間という生き物は心を本として生きており、生命現象として現われる「行為・行動」のすべては、その心の「末の現象」です。心が動いてから、その心に付随する内容の「行為・行動」が発現します。もし自分の「行為・行動」で改善したいものがあるならば、その「行為・行動」を起こさせている本である「自分の心」を改善しなければ、その「行為・行動」を改善するのは難しいでしょう。


 この『大学』では、

 「人間の社会を平安に治めるためには、各家庭が家族和合して平安に治まらなければならない。
  各家庭が家族和合して平安に治まるためには、社会に暮らす人間ひとりひとりが身を修めなければならない。」


 と言っています。
 これは言われてみれば、まったくその通りだと思います。
 人間社会の本は、その社会に暮らす人間ひとりひとりの存在だからです。

 この「身を修める」というのは何かと言えば、善悪判断を確かにし、道徳を身に付けて「社会の和合」に貢献する自分へと成長を遂げる事(道徳家になる)、と言えるかもしれません。

 『大学』では、「身を修める(道徳家になる)」までの “心の動き” の流れを、

 人間ひとりひとりが「身を修める(修身)」ためには、「心を正しくする(正心)」事が必要であり、
 「心を正しくする(正心)」ためには、「心を誠実にする(誠意)」事が必要である。
 「心を誠実にする(誠意)」ためには、「道徳的な判断を明晰にする(知到)」事が必要であり、
 「道徳的な判断を明晰にする(知到)」ためには、「物事の善悪をしっかりと判断できるようになる(格物)」事である。

 と解析しています。

 格物(かくぶつ物事の善悪をしっかりと判断できるようになる 知到(ちち道徳的な判断が明晰になる 誠意(心=想いが誠実になる 正心(心が正しくなる 修身(道徳家になる)、という “心理の流れ” がある、という事ですね。

 それにはまず、人間が『道徳』に対して、「必要性」「重要性」「価値」「貴さ(尊さ)」「有り難さ」「感謝」「喜び」「嬉しさ」「魅力」などを感じ取る事ができなければならないと思います。人間は「必要とも感じない、その価値も分からない、喜びも感じない、嬉しいとも思わない、まったく魅力を感じない」ものに対して心を向ける事はなかなか難しいです(これは「食養」も同じです)。ですから、まずは人間ひとりひとりが単純に『道徳の良さ』『道徳の喜び』『道徳への魅力』を感じ取れる社会にならなければならないでしょう。つまり、人間ひとりひとりが自分なりの『道徳を会得するための意義(理由)』を持てるようになる事が必要なのです。この原点が無ければ、凡そ「身を修める(道徳家になる)」事に価値を感じる事は難しいと思います。

 人間ひとりひとりが道徳に価値を感じ、自分なりの『修身(道徳家になる)』が成り得てこそ、初めてその社会全体が「道徳的に豊かな社会になる」というわけです。私はこの『大学』の、「人間が道徳家になるための “心理の流れ” を明確に表現している」ところは、なかなか凄い事だと感じます。

 この “国民ひとりひとりの『修身(道徳家になる)』” が成り立たなければ、経済大国となって、いくら物質的に豊かになろうとも、それだけでは、真の「心の平安や幸せ」は望めないのでしょう。



 それでですね、ここでは何も「道徳家になりましょう♪」というお話をしたいのではなくて(それも多少ありますけど・・)、実は、上述の “心理の流れ” の中に「どの癌治療に心(意識)を向け、どの癌治療を選択していくのか」という『心の感じ方(思考の仕方)』のヒントがあるように思うのです。

 結局、人間は「それをどう感じ取る事ができるか」で、その先が決まっていくように思います。

 せっかく当ブログサイトにご縁が有ってくださっても、「食養なんかインチキだ!」と思ってしまうのか・・、それとも「なるほど、どうやら食養は大事そうだな!」と感じてくださるかによって、その癌患者さんの癌治療はまったく「別の道」を歩んでいく事になるでしょう。


 癌治療に上述の “心理の流れ” を合わせてみると、こう言えるのではないかと思います。

 格物(癌治療の良し悪しをしっかりと判断できる識別眼を持つ 知到(正しい癌治療の判断が明晰になる 誠意(正しい癌治療を実行せねばなるまい、という “誠実な想い(誠意)” を持つようになる 正心(正しい癌治療を実行しようとする “正しい想い(正心)” が心に確立される 修身(癌の「自己療法家」になる)、というような感じでしょうか。

 まず、抗がん剤や放射線だけの治療で癌を治している癌患者さんは一人もいません。これは皆さんもご存知なはずです。
 ならば、「抗がん剤や放射線は癌を治さない」という事実を理解できるはずですね。
 抗がん剤や放射線は、癌を治さないどころか、(一時的に癌を縮小させても)後日かえって癌を必ず悪性化させてしまい(タチ悪い癌にしてしまいます)、二次発癌を促し、体の免疫能力を低下させて「癌に対応できない体」に仕立て上げてしまいます(癌が治らない体になってしまいます)から、抗がん剤や放射線などは本当は「絶対にやっちゃいけない、完全なるミス医療」なのです。
 それなのに、標準的な癌医療ではいまだに抗がん剤や放射線を(年間の癌医療費15~20兆円という巨利を生み出したいために)やっちゃっているわけです(特に、抗がん剤は “超ドル箱” です。抗がん剤や放射線については「抗がん剤・放射線の真相」カテゴリの記事を参照してください)。

 今では世間でもだいぶ知られるようになりましたが、私が聞き及んできた「癌患者の癌をしっかりと改善した実績のある療法」は、食事療法、断食療法、飲尿療法などの自然療法です(漢方療法も耳にした事があります)。これらの自然療法は、末期癌患者すら救っている症例(ケース)がたくさんあります。

 だからこそ、私は父の癌の改善のために、癌を改善するための最低ラインとして『玄米飯+生菜食を中心とした食事療法(少食を含む)』と『断食療法(週末一日断食)』という食養メニューを父に推奨し、(半強制的にではありますが)その食養メニューを父に課してきました。詳しくは「我が家の “癌の車窓” から見えたもの」を参照して頂きたいのですが、父の担当医からは「腎臓癌は一番タチが悪く、手術をして助かっても、その後に転移する人・亡くなる人は軽く9割を超えている」と聞いていましたが、父は食養(玄米飯+生菜食+週末一日断食)による癌治療によって「血液浄化」「栄養の改善(特にビタミン・ミネラル・酵素)による代謝の賦活」「強烈な排毒・解毒」「宿便の排泄」「腸内改善」「免疫の改善と向上」「自然治癒力の増強」などを安全に果たし得て癌体質を改善し、腎臓癌(右腎臓に確か6~8cm の癌でした)の手術をしてから今年(2014年)で8年が経ちますが、今も癌の再発は欠片もありません。

 世間では手術後に癌が再発してしまう癌患者さんが非常に多い中で、父が腎臓癌の手術をしてからこの8年間、父の体に癌がまったく再発しなかったのは、当然「何とな~く、癌が再発しないで済んじゃった」のでは決してありません。父が食養の実行によってキチンと癌体質を改善し得ていたからこそ、体内に再び「癌が発生してしまう物理条件」をしっかりと削いでいたからこそ(癌が再発する物理条件が消失していたからこそ)、父の体は「もう癌が発生しないで済んだ」のです。父は食養によって「癌体質(体内に癌が発生してしまう体の状態)を改善できたから、癌が再発しなかった」のです。
ちなみに、私の祖父は胃癌の手術後、確か、たった半年ほどの短期間で体中が癌だらけとなり、癌で亡くなっていきました。祖父は食養による癌治療は一切できませんでした。祖父の胃癌の時には、私がまだ食養と出会えていなかったので、祖父の癌に食養で対処する事は叶わなかったのです・・・

 これは、私が癌治療における(上述の)『格物(癌治療の良し悪しをしっかりと判断するための識別眼)』の的を得ていたからこそ、(半強制的ではあったけれども)父の『修身(癌を食養で自己療法する)』が成り立ち、父は癌体質を改善して癌の克服へと歩を進める事ができたのだと思います。私は自分を振り返ってみて、上述の “心理の流れ” をはっきりと感じています。癌治療においては『格物(癌治療の良し悪しをしっかりと判断するための識別眼)』が如何に重要である事かを、今もって強く感じています。ここを持ち合わせていないと、自然療法(食事療法少食療法断食療法飲尿療法)を何もしないで標準的な癌医療だけに頼ってしまい、(標準的な癌医療の大嘘に呑み込まれて)物の見事に「抗がん剤漬け」「放射線漬け」にされて、最後は苦しく癌で亡くなっていく事になる・・、しかも高額医療費まで盗られて・・・、という悲劇(結末)を迎えてしまう事になるのです。私の祖父とその弟の叔父がそうでした。残念ながら今も、こういう癌患者さんが世間には非常に多いのです・・・。



 では、ここからは、この記事の主題である “「本」と「末」” の話をしたいと思います。
 「癌」と「癌治療」における “「本」と「末」” の話です。

 まずは、「癌治療」における “「本」と「末」” の話から始めます。

 どのような癌治療を選択するのかはその癌患者さん当人の判断力に委ねられるのは言わずもがなですが、癌治療においての「本」と「末」の関係は、上述の『格物』側が「本」であり、『修身』側が「末」です。

 癌患者さんが今実行されているその癌治療は『格物(癌治療の良し悪しをしっかりと判断するための識別眼)』を本とした「末の状態」です。もし、自然療法(食事療法少食療法断食療法飲尿療法)を何もしておらず、抗がん剤や放射線だけしかしていないのであれば、その「抗がん剤や放射線のみの癌治療()」を選択させている「本」となっているご自分の『格物(癌治療の良し悪しをしっかりと判断するための識別眼)』が “本当に正しいのかどうか” を、今一度、真剣に振り返られてみてほしいと思います。抗がん剤や放射線という癌治療を選択している “ご自分の判断力・識別眼(癌治療の選択本)” が本当に正しいのかどうか・・ をです。世間の癌医療の実地では抗がん剤や放射線だけで癌を克服している患者さんなんて一人もいないのですから、抗がん剤や放射線だけで癌治療をしている癌患者さんはご自分の生命があるうちに、ここを真剣に熟慮せねばなりません。頭が痛くなるくらいに考え込んでいて損はないです。それほど、抗がん剤や放射線とは “大きく的を外している” 癌治療なのです(“大きく的を外している” とは「癌患者の癌を(わざと)治さない」という意味です)。

 「癌治療」における “「本」と「末」” は、次の通りです。

  癌治療における「本」 格物(癌治療の良し悪しをしっかりと判断するための識別眼
  癌治療における「末」 癌患者さんが今実行されている癌治療(三大療法なのか、自然療法なのか


 次に、「癌」における “「本」と「末」” の話に入ります。

 癌治療の「意義」とは、「癌を殺す」事にあるのではなくして、「体内に癌を発生させしめている原因元(癌発生の大元)である癌体質を改善する」事にあります。この「癌の認識」がブレていると、癌は絶対に治せません。

 ここにおいては、『癌体質を改善する』というのが「癌の本を正す」事であり、その「末の現象」として現われるのが『癌が改善して治る』という結果です。「体内に癌を発生させている本」は “癌体質” であり、その「癌体質の末」の現象として体内に発生しているのが “癌の塊” です。 “癌の塊” などは「癌体質が表面化して現われてきた産物に過ぎない」のです。

 「癌」における “「本」と「末」” は、次の通りです。

  癌における「本」 体内に癌を発生させしめている原因元(癌発生の大元)である “癌体質”
  癌における「末」 体内に発生した “癌の塊”(癌体質が表面化して現われてきた産物


 これらの点を踏まえまして、『大学』の “「本」と「末」” の部分をこのように置き換えて見てみましょう。



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 物に本末あり、事に終始あり。
 その本(もと)乱れて、末(すえ)治まる者は否ず(あらず)。
 その厚かる所()き(べき)者(こと)薄くして、その薄かる所()き者厚きは、未だこれ有らざるなり。
 此れ(これ)を本を知ると謂い、此れを知の至まりと謂うなり。


大学の訳
 物事には「根本」と「末端」とがあり、また「初め(始め)」と「終わり」とがある。
 その根本〔の我が身をよく修める事〕が出鱈目(でたらめ)でありながら、末端〔の国や天下〕がよく治まっているというのは、めったにない。
 自分で力を入れなければならない事を手薄にしながら、手薄でもよい事が立派にできているという例(ためし)は、まずないものだ。
 このように〔天下国家を目指しながらも我が身をよく修める事を第一と〕するのを、真に根本をわきまえた者と言い、このように〔根本を知り抜いて〕ある事を、知識の極みと言うのである。


癌治療に当てはめた訳
 癌治療にも「根本」と「末端」とがあり、また「初め(始め)」と「終わり」とがある。
 癌治療の根本〔である『癌体質の改善』〕が出鱈目(でたらめ)でありながら、癌治療の末端として『癌がよく治る』という結果が出るのは、めったにない。
 自分で力を入れなければならない癌治療を手薄にしながら、その “手薄な癌治療” でもよい結果が立派に得られているという症例(ケース)は、まずないものだ。
 癌治療においては、このように〔癌を治す事を目指しながら、本当の「癌の知識(癌の真相)」を我が身によく修める事を第一と〕するのを、真に「癌治療の根本」をわきまえた者と言い、このように〔「癌の真相」を知り抜いて〕いる事を、「癌の知識」の極みと言うのである。


私の超訳
 癌治療にも「根本」と「末端」とがあり、また「初め(始め)」と「終わり」とがある。
 癌治療の選択の「根本」として重要なのは、その癌治療が “本当に癌を改善して治せるかどうか” を判断する識別眼(格物)である。その「末」の結果が、その癌患者が選択して行なっている癌治療である。
 癌治療の正しい「根本」は『癌体質の改善』を言い、その末端として現われるのが『癌体質が改善する事によって癌が改善して治る』という結果である。
 この「癌治療の根本」が出鱈目(でたらめ)でありながら、癌がよく治る結果( 癌治療の正しい「末端の姿」)を得ているというのは、めったにない。
 正しい癌治療というものは、自分なりに自然療法を始める事で『癌体質の手入れ』を開始して、『癌体質を改善し得る事によって癌が治る』という終着点を目指していく事にある。
 標準的な癌医療の三大療法(抗がん剤放射線手術)だけで癌が治った、という癌患者の症例(ケース)など、まず聞いた例(ためし)がない。三大療法だけで癌を治した元癌患者なんて、一人もいないのである。
 『癌を治す事のできる「本物の癌治療」とは一体何か?』を見抜くためには、(延命などという消極的意識ではなく)癌を治すという積極的意識を持ち、本当の「癌の知識(癌の真相)」を求めて我が身によく修める事を第一とせねば、自力で「本物の癌治療」にたどり着くのは至難の業である。無思考で標準的な癌医療に頼れば(癌医療におんぶにだっこしてしまうと)、三大療法だけの癌治療に呑み込まれてしまって当然である。三大療法だけの癌治療で失敗して生命を落としても、これは自己責任による「無知の罪」の結果なのだ(厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、これは事実です)。
 『標準的な癌医療の三大療法だけで癌をしっかりと治した人なんて、世の中に一人もいないではないか・・』という “日本の癌医療における実地” に対して率直なる疑念を持ち得て、自ら本当の「癌の知識(癌の真相)」を学んで知り得た者こそが、真に「癌治療の根本」をわきまえる事ができるのであり、「本物の癌治療(自然療法による癌体質の改善)」に進む事ができるのである。このように「癌の真相」を知り抜いている事を、「癌の知識」の極みと言うのである。本当に癌を治すためには、この道筋を歩むことがどうしても必要なのだ。



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 いかがですか?
 少しくクドイ表現になってしまったかもしれませんが、私がお伝えしたい事を何とか短い文章の中にまとめてみた次第です。

 このような『癌治療と癌における “「本」と「末」”』を理解する事は、非常に重要なことであると思います。
 これは、日本の癌医療界の “大嘘” を見抜き、癌医療に殺されないための、非常に重要な「癌の認識」です。


 「近藤誠」医師は、次のような著書を通して、日本の癌医療界が演ずる “悪魔的所業” をありのままに暴露してくださっている貴重な先生のお一人です。

       別冊宝島2000号「がん治療」のウソ (別冊宝島 2000)

       「余命3カ月」のウソ (ベスト新書)

       大学病院 タブーな裏側 (別冊宝島 2124)

       医者に殺されない47の心得 - 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法

       がん治療で殺されない七つの秘訣 (文春新書)

       抗がん剤だけはやめなさい (文春文庫)

       放射線被ばく CT検査でがんになる


 こういう “癌医療界の実態” のある事については、このような専門家の先生が暴露してくださらなければ、私たち国民はいつま経っても知る事ができなかったのですから、本当に感謝しなければならないと思います。私は近藤先生の言われているすべてには同意できないものの、近藤先生の勇敢な行動には心から敬意を表します m(__)m

 今や、このように “日本の癌医療界の実態” をありのままに暴露し、国民が『癌の真実』に目覚められるように体を張って訴えてくださっている医療関係者が増えてくださっています。なのに世間では、いまだ『癌の真実』に目を覚ます事ができずに、癌医療界が平気な顔して提示する “三大療法の大嘘” を鵜呑みにして受けてしまい、それが原因して癌死されていく癌患者さんがまだまだ後を絶ちません。それどころか、『癌の真実』に目を覚ます事ができないでいるならばまだしも、命がけで『癌の真実』を伝え残してくださっている諸先生方の事を「オカルト」だとか「インチキ」だとか「トンデモ」だとか言って、今も非難している方々が世間にたくさんおられるのが現状なのです・・・。

 「甲田光雄」博士、「森下敬一」博士、「石原結實」博士、「星野仁彦」博士、「安保徹」博士、「近藤誠」医師、「済陽高穂」医師、「鶴見隆史」医師、「内海聡」医師、「船瀬俊介」氏など、医学博士や医師でありながら身内(医療関係)に恨まれながらも、国民に『癌医療の真実』『癌治療の真実』を明かしてくださっている諸先生方の誠意を国民が受け止められなくてどうするのですか!と、私は叫びたい思いでいっぱいです。


 ちなみに、私は当ブログサイトで「癌治療には断食が有効する」とお話ししてきましたが、酵素医療の第一人者として有名な「鶴見隆史」医師が最近(2013年の12月)、「断食でがんは治る」という本を著わしてくださっていました。


 これはモロですね!

 鶴見先生は「手術、抗がん剤、放射線。三大療法で癌は治らない」と、しっかりと言ってくださっています。
 まったく、本当にその通りです!
 もし、まだ「癌治療には断食が有効する」という事が信用できない癌患者さんは、鶴見先生の上著を一度ご覧になってみてはいかがでしょうか? 860円という安価な値段ですから、この一冊で「癌治療における断食の理解と信頼」が得られるなら、これは非常に「お買い得の一冊である」と言えると思います。

 これも何度もお話ししていますが、私の父(元腎臓癌患者)は「週末一日断食」を開始してから排毒・解毒作用が強烈に発露し始め、父の癌体質の改善に断食は大きく貢献してくれましたので、癌治療における断食の効用につきましては、私は揺るぎない信念にまでなっております。その「癌治療における断食の重要性」の視点に的を絞って著書を書いてくださった鶴見先生に、本当に感謝します m(__)m

 日本の癌医療には、日本国民が目を覚まさなくてはならない「不都合なる真実」が散見されるのです。
 日本国民はこの事実に対して、ゆめゆめ甘く見てはなりません・・・。
 こういう視点を甘く見てしまうと、ご自分が損をします。
 損をするどころか、日本の癌医療に本当に殺されてしまうでしょう・・・。



 この『大学』の第一章の初めには、「至善(しぜん)に止まる(とどまる)に在り」(止至善ししぜん)とあります。
 この意味は『最高善(至善)に自らの判断でそこに居り、そこを守って他所に移らない事に在る』です。

 この『止至善』(ししぜん)を癌治療に応用して私なりに表現してみますと、このような感じになります。

「手術、抗がん剤、放射線といった三大療法では、癌を治す事はできない。
 本当に癌を改善して治す力があるのは、食事療法・少食療法・断食療法・飲尿療法などの自然療法だけである。
 しかし、これら自然療法は、コツコツと継続していかなければ、キチンとした効果は得られない。
 自然療法は癌の改善に有効であるが、数日や数週間程度やった如きでは優秀な結果は得られないのである。
 自然療法は “継続が第一” であり、“継続してこそ、大きな力が発揮される” と言える。
 自然療法は、少しやっただけで止めてしまっては意味を成さないのだ。
 自然療法を継続するには、自然療法に対する “理解” と “信頼” がなければならない。
 自然療法の “理解” と “信頼” を得るためには、自然療法の『実践の継続』以外に手段はない。
 実践なき者は、自然療法の “真意” も “真実” も分からないだろう。
 自然療法の実践は、自然療法の “理解” と “信頼” が得られる秘訣にして唯一の手段である。
 実践が自分にすべてを教えてくれるのである。
 自然療法の価値が分かったならば、あとは自らの判断による意思で自然療法の『実践の継続』を守り、他に移らない事だ。
 他に移らずに、自然療法の『実践の継続』に居座り続ける事。
 つまり、自然療法を飽きずに懲りずに “たんたんと” 実践して継続していく事、これである。
 この “たんたんと” という気持ちから起こる行動こそ、自然療法の『実践の継続』が、やがて “塵積りて山のような好結果を自分に運んでくれる秘訣” である。」


 以上ですが、私は、この『止至善』(ししぜん)という考え方は非常に重要だ、と心得えています。

 自然療法の実践は、止めてしまうと意味がなくなります。止めた時点で、効果も終了です。
 自然療法は「如何に継続していく事ができるか如何に継続し得るか)」がキーポイントです。
 自然療法の実践は「飽きずに、懲りずに、たんたんと・・」という気持ちの持ち方がコツです。
 この気持ちを心に大事に持って、日々 “たんたんと” 自然療法を継続していきましょう!

 自然療法とは、

 「今日も、明日も、たんたんと・・。
  来週も、再来週も、たんたんと・・・。
  来月も、再来月も、たんたんと・・。
  来年も、再来年も、たんたんと・・・。
  毎日毎日、ただただ、たんたんと実践あるのみ・・・。」


 です♪

 この積み重ねによって、やがて、癌治療における自然療法の “真意” と “真実” に、自分が気づき始めます。
 そして、それが『信じる力』と相成って、自然療法が自分の人生に根付いていく事でしょう。
 「食事療法」「少食療法」「断食療法」「飲尿療法」などの自然療法が自分の人生に根付く事ほど大きな力はありません。
 それは癌を改善させるだけでなく、自分が持っている持病までをも改善させ、すべての病気のリスクを低下させる大きな力と成るのです。自然療法は「たんたんと」実践していき、自分の人生の一部になるまで昇華(自己実現)させましょう!