中国古典に『菜根譚』という有名な書物があります。前集222条、後集135条から構成され、前集は「人の交わり」を説き、後集では「自然と閑居の楽しみ」を説いています。
 菜根譚は中国明代末期の人「洪応明(自誠、号還初道人)」によって著わされた随筆集で、その内容は通俗的な処世訓を『三教一致(儒教道教仏教)』の立場から説いた思想書になっています。

 この『菜根譚』の前集11条に、次のような「食養と人間の相関性」に関する面白い内容があります。



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菜根譚 - 前集11条

【原文】
 藜口莧腸者、多氷清玉潔。
 袞衣玉食者、甘婢膝奴顔。
 蓋志以澹泊明、而節従肥甘喪也。

【読み下し文】
 藜口莧腸(れいこうけんちょう)の者は、氷清玉潔(ひょうせいぎょくけつ)多く、
 袞衣玉食(こんいぎょくしょく)の者は、婢膝奴顔(ひしつどがん)を甘んず。
 蓋(けだ)し、志は澹泊(たんぱく)を以てして明らかに、而して(しかして)節は肥甘よりして喪うなり。

    藜口莧腸 ・・・ 粗食
    袞衣玉食 ・・・ 美衣美食
    氷清玉潔 ・・・ 氷のように清く、玉のように穢れのない様(さま
    婢膝奴顔 ・・・ 奴婢ぬひ奴隷のこと)のようなお追従を上位の者にする卑賤な様(さま
     追従 ・・・ 他人の気に入るような言動をすること。こびへつらうこと。
    澹泊 ・・・ 淡白


【訳文1】

 平素、粗衣粗食に甘んじている士人には、氷のように清く玉のように穢れのない心の持ち主が多いが、
 (これに反して)、美衣美食に奢る輩には、甘んじて奴婢のようなお追従を上位の者にする卑賤な態度の者が多い。
 思うに、人間の操守は、淡白な生活によってますます磨かれるが、
 その気概は、豪奢(ごうしゃ非常に贅沢で派手なこと)な生活によって次第に失われていくものである。



 私が持っている『菜根譚』は上の図書ですが、他の訳では次のようなものがあります。


【訳文2】
 素朴な食生活で生きている者は、透明で清潔な者が多いが、
 美食豊満な生活を送る者は、下衆な根性で生きている。
 思うに、「志」は淡白な生活で磨かれ、飽食な生活により失われてしまう。つまり、贅沢は敵ということ。
 言い換えれば、飽食絶って礼節を知ると言えるだろう。


【訳文3】
 粗衣粗食に甘んじている者には、清らかな心の持ち主が多い。
 これに対し、美衣美食にふける者には、上級者に卑屈な態度を取る者が少なくない。
 思うに、志操は清貧な生活によって磨かれ、節操は贅沢な生活によって失われるものであるらしい。




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 以上です。

 【訳文1】【訳文2】【訳文3】はそれぞれ翻訳者によって少し雰囲気が違いますが、当然、内容的にはほぼ同じです。
 ですが、中国古典はいろいろな先生の訳文に触れてみますと微妙に異なる視点があり、その古典の伝えている意味の奥行きが自分の中で深まるような気がします。

 この内容は、日本の食養学の世界でも散々言われてきたものです。
 食養の「究極の目標」は人間形成にあり、病気治しのためだけにあるのではありません。

 「食べ物と、人と、社会  ≪ 食べ物が与える影響 ≫」にありますように、アメリカの犯罪研究学者「A・G・シャウス」博士は、現代食のような「美味美食」には『人間を犯罪へと仕向ける誘発性がある』と警鐘を鳴らしていました。

 欧米の刑務所の中には、マクロビオティックを実践しているところもあります。それまでその刑務所では肉食中心の食事が支給されていましたが、刑務所の中ではいつも争い(喧嘩や暴力沙汰)が絶えませんでした。そこで、刑務所で支給される食事内容をマクロビオティックの全粒穀物と菜食のみの食事に替えると、争いがまったく発生しなくなったそうです。自然と争うことがなくなり、お互いに協力し合うようになって仲良くするようになったそうです。

 近年、日本では「子供の心を育てるためには食事が大切だ」と叫ばれるようになってきています。食事と子供の性格に関する研究による結果、子供の心を育てるには『食育』が最も大切だと認識されるようになってきたのです。

 このように、『食は、人間の心や性格をも左右する』ことが科学的にも理解されるようになってきており、それらに共通するのは「美味美食や飽食を止め、質素な粗食を心がけましょう」という内容です。
食育基本法の第一章《総則》第七条では、『食育は、我が国の伝統のある優れた食文化、地域の特性を生かした食生活、環境と調和のとれた食料の生産とその消費等に配意し、我が国の食料の需要及び供給の状況についての国民の理解を深めるとともに、食料の生産者と消費者との交流等を図ることにより、農山漁村の活性化と我が国の食料自給率の向上に資するよう、推進されなければならない。』としています。これはつまり、洋食化した現代食を諫め、日本の伝統食である「和食」を推奨しているものです。しかし、この食育は「現代栄養学に則った食指導」を基本としていますから、食養学的な指導とまでは言えません。
 ところが、この食育運動で「食育の始まりとなった人物」としてアピールされているのは「石塚左玄」と「村井弦斎」です(参照)。どちらも、日本の『食養学の父』として知られる食養学者です



 この『菜根譚』の前集11条で言われていることは、「洪応明」の優れた洞察から生まれ出た『食養観(食の真理)』であったのだと思います。

 食事とは「口からものが入る」ことです。「口から入るもの」、それが「食物」です。
 口から入った「食物」は消化吸収されて、その人間と同化します。

 私は、食についてはこう思っています。

「口から入るもの(食物)が、その人間に “それと同類同質の影響” を及ぼしている。
 口から入るもの(食物)が複雑なものであれば、その人間の心や性格も自然と複雑に成り、
 その人間の人生途上に現われる出来事(現象面)までが複雑化してくる。
 口から入るもの(食物)が簡素(シンプル)なものであれば、その人間の心や性格も自然と簡素(シンプル)に成り、
 その人間の人生途上に現われる出来事(現象面)までが簡素化されてくる。」


 これはつまり、

「その人が日常に食べている食事が “美味美食” のような『複雑なもの』であれば、
 その人の心の動きや性格も自然と『複雑なもの』と成る。
 その “複雑な心” から発せられる『複雑な想念』が、その人に “複雑な現象” を引き寄せる。
 故に、その人の人生には “複雑でややこしい出来事” が発生してくる。
 その人が日常に食べている食事が “質素な粗食” のような『簡素なもの(シンプルな食事)』であれば、
 その人の心の動きや性格も自然と『簡素なもの(シンプルな心の動きや性格)』と成る。
 その “簡素(シンプル)な心” から発せられる『簡素(シンプル)な想念』が、
 その人に “簡素(シンプル)な現象” を引き寄せる。
 故に、その人の人生には “簡素(シンプル)で真っ直ぐな(余計なものがない)出来事” が発生してくる。
 食とは、“その食の中身と同類同質の内容” が、人間の心身にまで深く同化してくる。
 それは身の範囲を超えて、人間の心の奥深くにまで大きな影響を及ぼし、
 人間の人生途上に現われる現象面にまで深く関わっている。
 食は人間の身も心も支配し、人間の気づかぬところで、人生までをも支配している。」


 ということです。

 要は、「口から入るもの(食物)」の状態が、そっくりそのまま「心身に転写して来る」ということです。
 口から入って来る「食物」の状態と “同類同質の内容” が、そのまま身に転写し、心にも転写し、しいては人生にも転写して来る、ということですね。

 たとえば、玄米を白米に精白したり(精白食品を食べたり)、野菜の皮をむいて食べたり(一物全体食を破ったり)、人工的な手の入った(作為の手の入った)加工食品を食べたりなど、そのような「欠けた食物」ばかり食べていると、身にも(体の中にも)欠けた状態が現われて来ます(つまり、病理が現われて来てます)。すると、心にも欠けた状態が現われて来るわけです(今では「鬱は栄養不足(主にビタミンやミネラルの不足)から起こる症状である」ことが分かっています)。そして、それはそのまま人生にも欠けた状態が現われて来るのです。心身に欠けた状態が現われれば、人生にも欠けた状態が現われて来るのは、誰でも何となくは分かるものです。
肉体の重い病気や、重い精神病に罹れば、仕事ができないとか、日常の一般的な普通の行為行動すらできなくなるなど、人生に深く影響して来るはずです

 「病は気から」というのも事実ですが、『食原病』という用語がある通り、「病は食から」というのも事実としてあります。
 これは「食が人間に如何に深く影響を及ぼしているか」を物語るものです。

 食物が欠けていると、それはそのまま、心身や人生にも欠けたものを現わします。
 食物が複雑になると、それはそのまま、心身や人生も複雑化してくるのです。
 過食や飽食に明け暮れ、生命を運営するのに「本来、必要のない食事(余計な食事量)」を食べていると、それはそのまま、心身や人生にも「余計なもの」が生まれる原因となるでしょう。


 江戸時代中期の観相学の大家「水野南北」は、『食物を正して慎むことで開運が得られる』として「南北相法修身録」を著わし、『慎食開運法』を唱えました。「食は運命を左右する」ことを世に訴え、食を正して少食にすることの大事を叫びました。


 神道の中では今も、「一日一食」を21日間行う『慎食行開運法』というものがあるそうです。

 かなり非科学的なことをお話ししていますが、正直、これは感性で感じ取るしかない内容です。ましてや、こういうことは科学的に立証できるものではありませんから、各々が個人的な感性でつかまなければならない分野になります。

 私個人的には、「あぁ~、昔の人は科学などなくても、その鋭い感性で “食の真理” を何らかつかんでいたんだろうなァ~」とか思ったりしています。 


 現代の日本社会は複雑性が極まり、何から何まで複雑でややこしい社会になってしまいました。
 その日本社会の複雑性は、戦後以降に始まった美味美食に支配された “日本人の心” から生み出されたものかもしれません。
 人間社会が複雑になればなるほど、その社会に暮らす人間の心は汲々(あくせくして、ゆとりのない状態)としてくるものです。現代の日本人の心を「汲々とした心」へと浸食してきた根本原因は、戦後以降に始まった美味美食の食事情にあるような気がします。食が複雑化し、身が複雑化し、心が複雑化し、社会が複雑化した、という流れです。


 かつて、西洋には『ローマ帝国』という強大な国家がありました。
 しかし、その『ローマ帝国』は見事に滅んでしまいました。

 以前の食養サイトで、このことについて、私はこのように書きました。



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 かつて西洋において、長きにわたり繁栄を極め、強大な一大帝国を築いていたという『ローマ帝国』がありました。
 周囲の国々からも、とても恐れられていました。が、滅びました。
 あんなに強大な国家が、きれいさっぱりと滅んだのです。
 強大なローマ帝国は滅び、今ではイタリア国のローマ市としての痕跡が残るくらいです。
 (ローマ帝国の歴史の足跡は、現在のヨーロッパに残る、全ての国々の文明や文化へと引き継がれていると思います

 なぜ、ローマ帝国が見事に滅んでしまったと思いますか?

 これは、西洋の古い文献を和訳したものです。
 ちょっと古くて読みづらいかもしれませんが、ご紹介します。

「われ等の生活せるローマ帝政時代の末期、精神的なものは悉く(ことごとく)影を潜めて、所笑顔(ところえがお)に跋扈(ばっこ)するは、ただ酒色と、荒淫と、悪徳と、劣情・・・、若し(もし)汝(なんじ)にしてその実情に接触せんか、初めて闇の、いかに戦慄すべき害毒を、人間に流し得るかを会得したであろう。身を切る如き(ごとき)絶望の冷たさ、咫尺(しせき)を弁ぜぬ心の闇、すべてはただ、人肉のうめきと、争いとであった。
 さすがに天使達も、一時、手を降すの術(すべ)なく、覚えず(おぼえず)眼を覆い(おおい)て、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に、無信仰以上の堕落であった。すべてが道徳を笑い、天帝を嘲り(あざけり)、永生を罵り(ののしり)、ひたすら汚泥の中に食い、飲み、又、溺れることを以て(もって)、人生の快事とした。その形態は正に(まさに)人間であるが、その心情は、遥か(はるか)に動物以下であった。」



 少し読みづらかったでしょうが、ローマ帝国の末期症状が生々しく描写され、詳細に記述されています。
 この文献によると、そのローマ帝国の「末期の状態」はこうです。

「精神的なものはすべて影を潜め・・・、酒、淫欲、悪徳、情の無さが世を支配し・・・、そして心の闇があるばかり・・・。
 ただただ争い合い、汚れた食物(贅沢でおいしい美味美食)を喰いあさり、酒に溺れ、性欲をむさぼり続ける、人肉のうめきがあるばかり・・・。みんな、それを人生の喜びとしていた・・・。
 道徳を嘲笑い、皇帝をあざけり、健康長寿を罵り、姿は人間に見えるが、その中身は遥かに動物以下であったのだ・・・。」



 まず「飲食」が乱れ、そして「性」が乱れてきて、「道徳」が薄れ、「政治」が腐敗していき、ついにローマ帝国は歴史の闇に消えていったのでした。

 これって、現在のどこかの国に非常に似ていませんか・・・ ?
 それは「ニホン」です。
 現在の「日本国」の姿です。
 現在の「日本の状態」はどうでしょうか?

「食が乱れ、性が乱れて、離婚が相次ぎ、不倫や浮気が流行にさえなり・・・、
 道徳も薄れゆき、政治は、国民の皆様へ “ヨイショ~(人気取り)” 政治 ・・・・・・」



 私がここ、ず~っと思っていることがあります。

 現代の日本人は、当たり前のように欧米食(特に肉食)にどっぷりと浸かっております。本来の和食から離れて、ますます洋食化が進み、肉食絶好調の40~50年が経ちました。日本人の「飲食の欧米化」が急速に進んできて(欧米食が日常茶飯事、当たり前になってきて)、何だか犯罪の傾向も欧米化してきている(日本の犯罪も欧米の犯罪に似てきた)ように感じられますが・・、どうでしょうか?

 現在の日本は、帝政『ローマ帝国』の末期症状に非常に似ているとは思いませんか?
 やはり、歴史は繰り返すのでしょうか・・・・・・、心配です・・・。


 なぜ、強大な『ローマ帝国』が滅亡するに至ったのかは、一般的にも、ローマ帝国の国民の「飲食の乱れ」が直接の原因であった、と知られています。

    「飲食の乱れ」から「性の乱れ」へ・・・
    「性の乱れ」から「道徳の乱れ」へ・・・
    「道徳の乱れ」から「政治の乱れ」へ・・・
    「政治の乱れ」から「国の乱れ」へ・・・
    「国の乱れ」から「国の終わり」へ・・・・・・・・・ ですね。

 やはり国家とは、国民という人間が「母体」です。
 人間が乱れれば、 国家が乱れて当然だと思います。
 私は、これが「おままごと」や「お伽話」ではないように思いますが・・・・・。
 どう思われますか?

 私個人としては、「飲食の姿が人間社会の基本なんだよ」と伝えてくれているように思います。
 昔の偉人の方々は、現代栄養学仕込みの「栄養満点の素敵なメニュー」など食べてはいません。
 やはり、昔の食事の「粗食の力」「少食の力」が、偉人たちの「体」と「心(意識)」と「偉業」を支えてくれていたことでしょう!



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 強大を誇った『ローマ帝国』は、国民が美味美食に奢るようになってから、その腐敗が始まっています。
 国民が美味美食に奢るようになると性が乱れ、性が乱れると道徳が乱れ、道徳が乱れると家庭も社会も政治も乱れ、
 政治が乱れると、やがて国家存亡の時に至る・・・ という、昔からよくある王朝の滅亡パターンです。

 この『ローマ帝国』を滅ぼした要因は、『菜根譚 - 前集11条』にて「洪応明」が言わんとしていた『食の真理』に相通じるところがあります。

 「口から入るもの(食物)」は、その人間のすべてを支配していきます。
 「口から入るもの(食物)」如何で、人間の有無(良し悪し)が決まると言っても過言ではないのです。
 それはやがて、人間社会の有無(良し悪し)までをも左右していく、ということです。
 この『食の真理』に、多くの日本人に気がついて頂きたいです。

 余計な煩悩を卒業し、シンプルな心で生きていくための土台は、簡素でシンプルな粗食にあると私は思っています。
 現代社会には、様々な煩悩に苦しんでいる方々も多いかと思います。
 私は煩悩も重要な成長材料であるとは思っていますが、もしかしたら、その煩悩の中には、本来は不要な煩悩もあるのかもしれません。その不要な煩悩は、簡素な粗食によって自然と雲散霧消するかもしれませんよ。
 その人が育つのに必要な煩悩は重要ではありますが、不要な煩悩まで持つ必要はありません。
 煩悩自体が人生の「好転反応(改善反応)」であり、人生の「マイナス栄養」でもあります。
 できる限り必要な煩悩だけに固め、不要な煩悩は省いていきたいものです。
 人生は有限です。本来、不要なもの(余計なもの)は極力省いていきましょう。
 不要な煩悩を極力省くためには、簡素な粗食による「心身の浄化」が一番です。
 食養で不要な煩悩を浄化して清め、必要な煩悩だけに固めて、それを「人生の糧(肥やし)」にしていきましょう。