この記事は “なわふみひと” さんの「2012年の黙示録」サイトの記事です。
 新約聖書における「ナザレのイエス(イエス・キリスト)」の言葉の意味を大変分かりやすく解説されています。
 この記事は霊的な内容ではありますが、霊的云々カンヌン以前に、人間として素朴で大事なことに気づかせて頂ける記事だと思います。イエスの言葉の中に含まれる霊的真理を、ご自分なりに何か素直に感じてみて頂けたらと思います。ホントに読んでみますと、案外、素朴な内容です。でも、この素朴さが難しいんですよね!



 新約聖書が教える究極のカルマの清算法
 【「2012年の黙示録」
より 】


  古代から現代に至るまでの間に、世界でもっとも多く発行されてきた書物といえば、文句なしに聖書ということになるでしょう。聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、旧約聖書はユダヤ教とキリスト教で正典とされ、イスラム教にも影響を与えているのに対し、新約聖書はキリスト教だけの正典とされている点が違います。しかしながら、たとえば新約聖書がキリスト教という一宗教団体のために書かれた書物だと思っている方は、その認識を改めていただく必要があります。

  正確に言いますと、新約聖書は「イエス・キリストという超能力者が、終末を迎えた人類に対して正しい生き方を伝えた警告の数々を、その弟子たちが取りまとめた書物」ということができます。決してひとつの民族やひとつの宗教団体の信者のためだけに編纂されたものではないのです。しかも、今日のキリスト教は、本来のイエス・キリストの教えから大きく逸脱しているという指摘がなされています。有名なシルバーバーチの霊言や、超能力者として霊界とこの世を行き来してきたと言われているスウェデンボルグの著書の中で、そのことが厳しく批判されています。

  というわけで、さらに踏み込んだ説明をしますと、新約聖書は、仏教の「因果応報の理」とまったく同じ内容の「カルマの法則」を説き明かしている書物といってもよいでしょう。

  そういう観点から、ここでは新約聖書の冒頭に収められている「マタイによる福音書」を引用しながら、イエス・キリストの教えの真髄ともいえる内容を見ていきたいと思います。イエス・キリストは弟子たちに「人が神の国に入るためには、この世でどのようなことを守らないといけないか」ということを教えているのですが、基本的には「カルマの法則」について述べています。

  ちなみに、新約聖書にたびたび出てくる「御国」あるいは「神の国」とは、この世で善行を積んだ人が死後に訪れるとされる「天国」のことではありません。この物質文明が滅んだ後に現れる「新しい世界」のことを意味しているのです。

  終末の時代を迎えたいま、私たち人類が幾たびかの生まれ変わりの中で作ってきた善くないカルマを清算して「神の国」に行くためには、これからどのような生き方をすればよいのでしょうか。新約聖書の中でイエス・キリストはいろいろな譬えを使って、終末における生き方の要点をたいへんわかりやすく教えてくれています。その教えの数々を分類して、次の9項目に整理してみました。これらは超能力者でもあったイエス・キリストが弟子たちや民衆に対して明らかにした「究極のカルマの清算法」と言えるものです。

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ナザレのイエス 肖像画 (イエス・キリスト)



  ことあとでひとつずつ解説していきますが、まずはその9つの項目をまとめてごらんいただきたいと思います。


  新約聖書が教える究極のカルマの清算法
  (1) 心をつくして神を愛しなさい。
  (2) 自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。
  (3) この世での報いを求めず、 神の国に富を積みなさい。
  (4) この世では幼子のように自分を低くしなさい。
  (5) 神の力を疑ってはなりません。
  (6) 人を裁いてはいけません。
  (7) 自分がしてほしいと思うことを、他人にしてあげなさい。
  (8) 心の中に悪い思いを持たないようにしなさい。
  (9) 父と母を敬いなさい。



心をつくして神を愛しなさい

  では、「新約聖書が教えるカルマの清算法」の1番目から解説してまいります。
  「律法の中で、どの “戒め” が一番大切なのか」という律法学者の質問にたいして、イエス・キリストは次のように答えています。

 ひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。
 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
 イエスは言われた。
 「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい』。
 これがいちばん大切な、第1のいましめです」。
 (マタイによる福音書)

  「神を愛せよ」とは、具体的にどういうことを言っているのでしょうか。一般的に「愛する」という行為は、「相手の求める自分になる」ことを意味しています。たとえば恋人同士の場合、歌の文句にもありますように「あなた好みの女()になりたい」ということです。
  逆に、今日における若い男女間の「愛」は仏教でいう「煩悩」に近いもので、相手を「自分好みの女()に変えたい」という「我善し=自己中心主義」となっているようにも見えます。つまり「相手を自分の思うように束縛したい」という傾向が強いということです。
  しかしながら、もともとの「愛」の形は、「相手の幸せを願い、その相手の幸せのためなら自分が身を引く場合もある」という抑制された行為を伴うものでしょう。ここで述べられている「愛せよ」の意味も、そのように理解したいと思います。
  愛する行為の2つ目は、「相手を信頼し、身を任せる」ということです。「どこまでもついていく」という行為が求められます。つまり、「相手を疑うことなく、信じきる」ということが最も大切なのです。
  以上2つの点から、「神を愛する」ということは、「神さまが人にしてほしいと望まれることをする」そして「神さまを信頼しきって、どこまでもついていく」という意味にとらえていただきたいと思います。
  新約聖書では、「神さまが人に望まれること」を「律法」「神の義」「戒め」などの言葉で表現しています。「律法」「戒め」は、旧約聖書にある「モーゼの十戒」の流れを引くものですが、イエス・キリストはそれをやんわりと修正しているのです。
  イエス・キリストの時代は、モーゼと言えばユダヤ人なら誰もが崇める「大預言者」だったわけですから、イエスといえどもその教えを真っ向から否定することはできなかったことでしょう。それでも、イエス・キリストは旧約聖書に登場する預言者たちを導いた「神々=Godsなぜか複数なのです)」の正体を見抜いていたようです。それは、人々に生け贄いけにえ)を要求するような恐ろしい存在だからです。自らの被造物であるはずの生き物たちに対する愛のカケラも感じられず、まさに冷酷無比な悪魔のような存在としか考えられません。ですから、イエス・キリストはその旧約聖書の神々との古い約束旧約)を修正して、新しい約束新約)を結ばせようとしたのです。それが新約聖書と呼ばれるゆえんとなっています。
  以下に旧約聖書の一文をご紹介します。「創世記」のなかに、「ノアの箱舟」で有名なノアが、大洪水のあと船から出てくる記述があります。その時の「主」すなわち旧約聖書の神様の言葉から、その神様がどういう方なのかがおわかりいただけると思います。

 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
  「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。
 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、
 あなたと一緒に連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻、息子たちの妻といっしょに外に出た。
 すべての獣、すべてはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、
 おのおのその種類にしたがって、箱舟から出てきた。
 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、
 すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の家で全焼のいけにえをささげた。
 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心のなかでこう仰せられた。
 わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。
 人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。
 私は、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
 (旧約聖書「創世記」―― 日本聖書刊行会 新改訳より)

  全焼のいけにえのかおりによってなだめをうける神様、この地をのろう神様、人の心の思い計ることは、初めから悪だと思っている神様、生き物を打ち滅ぼす神様 ―― これが旧約聖書の神様なのです。新約聖書の中でイエス・キリストが「天の父」として崇めている神様とは似ても似つかぬ存在だということができます。

  話を元に戻しましょう。要するに、イエス・キリストは「人を悪と考え、地をのろうような神」を愛しなさい、と述べているのではないということです。そうではなくて、人の行ないに応じた報いをくださる神様、すなわち、蒔いた種を刈り取るための収穫の機会をちゃんと与えてくださる神様 ―― その神様を愛しなさいということです。
  そして、世の終わりの「人類の卒業期」に、すべての人が神の国の住人となってくれることを期待して、そのために必要な心の持ち方、行ないの在り方、言葉の使い方を、イエス・キリストとその弟子たちを通じて人々に伝えてくださっている、まさに愛一筋の神様に対して心を向けるようにと教えているのです。


自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい

  終末における生き方の処方箋とも言える新約聖書の中で、イエス・キリストが最も重要な戒め commandment としているのは「心 heart を尽くし、精神 soul を尽くし、思い mind を尽くして、あなたの神である主 the Lord を愛しなさい」ということでした。続いて、イエス・キリストがこれと同じくらい重要な戒めとして示したのが次の言葉です。

 「第2もこれと同様です。
 『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』。
  律法全体と預言者の教えとがこの2つの戒めに基づいて(depend on)います」。
  (マタイによる福音書)

  キリスト教関係者の間で大変よく知られているこの戒律は、新約聖書の中では「主を愛せよ」と並んで最も重要な戒律とされているのです。
  そこで問題となるのが、「では、隣人とはどんな人たちのことを指しているのか」ということになります。自分の家族や親、兄弟姉妹などであれば、自分を愛するように愛することもそれほど難しいことではないでしょう。
  しかしながら、新約聖書の中の次の一文を読みますと、イエスの言う「隣人」とは、必ずしもそういう身近な人たちのことではないことがわかります。

 敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためです。
 天の父は、悪い人の上にも良い人の上にも太陽をのぼらせ、
 正しい人にも正しくない人にも、雨を降らして下さるからです。
 あなたがたは自分を愛する人を愛したからとて、なんの報いがあるでしょうか。
  (中略)
 あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人となりなさい。
 (マタイによる福音書)

  なんと「自分を愛するように愛しなさい」という「隣人」の中には「敵や迫害する者」も含まれているのです。多くの人はこの表現でイエスの教えにつまづくのではないでしょうか。なぜ自分を迫害するもののために祈らなければならないのか ――。
  実際にイエスは自らを十字架にかけようとする人たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書)と神に祈りを捧げています。
  イエスが人々にそのような心の持ち方を求める理由は、今日的表現をするなら「神様(天の父)と同じ波長になりなさい」ということです。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人となりなさい(そのように努力しなさい)」という表現がそれを表しています。
  自分を迫害する者、あるいは自分の大切な存在(家族など)を迫害する者を憎みますと、そのことによって、自らも「憎む」という心の波長が身についてしまうことになります。つまり、「憎む」という種を蒔いてしまうことになるのです。
  その種は「神の国」で何十倍にも何百倍にも大きく育ち、負のカルマとなってこの世界に還ってくることになります。そして、この世界で消化しきれなかったカルマが、世の終わりの時にまとめて清算させられることになるわけです。
  憎しみや恨みの念は、神様とは正反対のサタンの波長です。そのような粗い波長を持つと、ますますそのような憎むべき(恨みに思う)出来事を身のまわりに引き寄せてくる、というのがカルマの法則でした。イエスはそのような神の国の法則がわかっているので、「敵」や「迫害する者」という極端な表現をつかって、人々にその重要な法則を守らせようとしたのでしょう。
  神の国は、「与えた物が何倍にも拡大されて戻ってくる」という法則に支配されています。「愛」には「愛」が、「憎悪」には「憎悪」が、強調された形で戻ってくるということです。ですから、心の使い方が大変重要になるのです。
  ということで、私が新約聖書の中からピックアップした「カルマの清算法」の要諦は「自分がしてほしくないことは他人にもしてはいけない」ということに尽きます。このことは、律法全体と預言者の教えのすべてがその法則に基づいているというほど重要なことなのです。そういう視点に沿って新約聖書を読んでいきますと、イエス・キリストの述べている内容が大変よくわかります。たとえば、次の言葉も同じ視点から述べられたものです。

 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、
 あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるでしょう。
 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないでしょう。
 (マタイによる福音書)

  ここでは、「他人の過ちを許さない人は、自分の過ちも許してもらえない」ということが、カルマの法則の一例として述べられています。以下、カルマの法則に則ったイエスの教えが続きます。

 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った。
 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
 イエスは彼に言われた。
 「わたしは七たびまでとは言いません。七たびを七十倍するまでしなさい」。
 (マタイによる福音書)

  自分に対して好ましくないことをした相手であっても、いかに徹底的に許してしまわなければいけないかということを、イエスは「7度(たび)を70倍するまで許しなさい」という表現で強調しています。要するに、この世で「許せない!」という対象をつくってはいけないということです。そのような心の癖は、神の国の入口の扉を閉ざし、結局は自らの不幸を招くことになるからです。

 悪人に手向かってはいけません。
 もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
 あなたを訴えて、下着を取ろうとする人には、上着も与えなさい。
 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
 求めようとする人には与え、借りようとする人を断らないようにしなさい。
 (マタイの福音書)

  たいへん有名な「右の頬を打たれたら、左の頬をも打たせなさい」という言葉の意味は、これでご理解いただけたでしょうか。とにかく「人を恨むようなマイナスの念を持ってはいけない」ということを、イエスはさまざまな譬えを使って教えているのです。


神は人の髪の毛の1本まで数えている

  ここで「御国」「天」「地」という言葉の概念をもう一度整理しておきます。「御国」とは「神の国 the Kingdom of God 」ということで、2012年に私たち人類が地球といっしょに次元上昇して行くことになっている世界のことです。新約聖書に限らず、「日月神示(ひふみ神示)」などのわが国の神示においても、この三次元の物質世界(=地)がスタートしたときから、次元上昇の時がくることは決まっていたと述べられています。
  これに対して「天 heaven 」とは一般的な言葉で言えば「霊界」のことを言っています。次元でいえば四次元ということです。霊界通信などを通じて、人は四次元の霊界()と三次元の物質世界( earth )を行ったり来たり(輪廻転生)しながら魂を磨いてきた、ということが判っています。その魂を磨く上でもっと大切な法則がカルマの法則なのです。私たちの日頃の「心の持ち方・行ない・発する言葉(=身・口・意)」は私たち自身の心の波長に影響を及ぼし、その波長に応じた境遇を、この現実世界(実は「うつし世」といって心の世界が反映された世界)においても霊界においても体験することになります。
  心が地獄のような想念に満たされていれば、あの世(霊界)でもこの世でも地獄のような生活を体験することになるということです。
  そのような私たちの「心の状態」がもれなく記録されていると言われているのが「神の国(御国)」です。「大本神諭」や「日月神示」では、その時代の人たちに理解できる言葉で「すべて帳面につけてある」という表現が使われています。新約聖書では、「(あなたがたの父は)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というイエスの言葉が同じことを述べているのです。
  世の初めから決まっている終末の大峠を越えると、この「天(四次元)」と「地(三次元)」がまとめて「神の国」へと移行(次元上昇)することになります。ですから、もし「神の国」を次元で表現すれば「五次元以上の世界」ということになります。
  それは一般的に考えられている「天国」とは違うのです。天国は四次元の世界における波長の繊細な高い階層ということです。その反対に波長の粗いのが地獄的世界で、これは四次元の低い階層ということになります。
  これから迎える次元上昇のときには、この低い階層の住人は神の国の波長とは合わないため地獄的世界に取り残されることになるのです。聖書的表現をしますと、「地獄の釜のふた」が閉じられて、神の国へと移行した人間に干渉することができなくなるということです。新約聖書のヨハネの黙示録によれば、そのような状態が約1000年続くようで、その期間にちなんで「千年王国」と呼ばれています。
  この千年王国は、「日月神示」の中で述べられている「半霊半物質の世界」のことだと思われます。次元上昇してから1000年後に、もう一度人類はふるいにかけられて、その後に真正の神の国(神界)に変わると言われています。
  この地球ごと次元上昇したあとに現れる神の国は、文字どおり神様の住む世界ということで、次元上昇した人たちは「神様にも匹敵するような存在」になるわけです。そのことが「日月神示」では「新しい世界では人が神となる」と表現されています。
  神の国は、「与えたものと同じものがすぐに返ってくる」というカルマの法則に支配された世界ですから、その世界に住むことができる住人は、この世にいるときから心のコントロール法を身につけておく必要があるということです。たとえば他人を憎むような気持ちを持つと、その憎しみの念はこの物質世界よりもはるかに強烈なパワーを持って憎しみの対象となる人を傷つけ、同時に自分をも傷つけることになるからです。
  この三次元の世界で「子の刻参り」として知られる「わら人形に呪いの釘を打つ」のと同じレベルのことが、普通の状態ですぐに実現してしまうことになるということです。そのような憎悪の念が飛び交う世界はとても神の国と呼べるものではありません。
  この終末期に次元上昇して「神の国」の住人になれるのは、この物質世界において必要な身魂磨きを済ませ、心の浄化を成し遂げた人に限定されると言われているのはそのためでしょう。


人はこうしてふるいにかけられる

  さて、この項の最後に、神の国に行ける人と行けない人は何によって分けられるのかということがよくわかる新約聖書の中の一文をご紹介しておきます。この文章を読んでいただくと、「隣人」とは「弱い立場の人」を総称していることが分かります。
  終末の土壇場では、そういう弱い立場の人に慈悲の心を表すことができたかどうかを基準にして、人がふるいにかけられるということです。要するに、「髪の毛一本」の譬えのとおり、私たちの日頃の言動は一つ残らず神さまによって把握されているということでしょう。それがキリスト教の人たちの間で語られている「最期の審判」といわれるものなのです。

 人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくでしょう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左におくでしょう。
 そのとき、王は右にいる人々に言うでしょう。「わたしの父に祝福された人たちよ。さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてきてくれたからです」。
 そのとき、正しい者たちは答えて言うでしょう。「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。
 すると、王は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい人のひとりにしたことは、すなわち、わたしにしたことになるのです」。
 それから、左にいる人々にも言うでしょう。「のろわれた人たちよ。わたしを離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火にはいってしまいなさい。あなたがたは、私が空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを訪ねてくれなかったからです」。
 そのとき、かれらもまた答えて言うでしょう。「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、私たちはお世話をしませんでしたか」。
 そのとき、彼は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。これらの最も小さい人のひとりにしなかったことは、すなわち、わたしにしなかったことになるのです」。
 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい人は永遠の生命に入るでしょう。
 (マタイによる福音書)


この世での報いを求めず、 神の国に富を積みなさい

  ここからがカルマの法則の具体的な行動指針とも言える内容となります。「世の終わり」を前にして、現代社会に生きる私たちが最も心に刻んでおかなければいけない戒めの数々が述べられています。

 自分の義を、見られるために人の前で行なわないように、注意しなさい。
 もし、そうしないと、天にいますあなたの父から報いを受けることがないでしょう。
 ですから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、
 自分の前でラッパを吹きならしてはいけません。彼らはその報いを受けてしまっています。
 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはいけません。
 それは、あなたのする施しが隠れているためです。
 そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるでしょう。
 (マタイによる福音書)

  新約聖書では「蒔いた種の収穫」のことを「報い reward 」または「報いを受ける paid 」という言葉で表現しています。まさに仏教でいう「因果応報」の「報」に当たる言葉です。
  仏教では、善いことをしたら善い報い(善因善果)、悪いことをしたら悪い報い(悪因悪果)と教えていますが、上の文章での「報い」は「善果」すなわち「よい報い」の意味に使われています。
  この世における「報い」とは、言いかえれば「現世利益」ということになります。富、名誉、地位、権力、他人からの賞讃など、多くの人が求めてやまないものといってよいでしょう。「善き行為(=義)」も、人に賞讃されることを期待して行なうと、せっかく蒔いた “種” が本来なら天の倉(神の国にあるカルマの貯蔵所)に積まれるところなのに、この世での賞讃という「報い」を受けてしまうので、天の神さま(=父)からは何の報いももらえないよ、とイエスは忠告しています。
  つまり、「自分はいいことをした(している)」と自慢する気持ちは、天の倉に積むべき善果を先食いしてしまうことになると言っているのです。同じ意味のことが「日月神示(ひふみ神示)」にも次のように表現されていますので、このことはカルマの法則の非常に大切なポイントだと考えられます。

 人に知れんように善いことつめと申してあろうが。
 人に知れんようにする善いこと神心ぞ。
 神のしたことになるのざぞ。
 (ひふみ神示)

  また、自慢する気持ちではなくても、自分がした善行が他人に知られるだけで、それは天の倉に積まれることにならないようです。そのことを、ここでは「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と表現していますが、英訳では次のようになっています。

 When you help a needy person,
 do it in such a way that even your closest friend will not know about it.

  これを直訳すると、「あなたが貧しい人に施しをするときは、そのことがあなたの最も親しい友達にも知られないようにしなさい」となります。おそらくギリシャ語の新約聖書の原文には日本語訳のように「右手」「左手」という表現が使われていたのでしょうが、英語に訳した人はそれを意訳して、よりわかりやすくしたものと思われます。
  以下、「祈る場合」「断食をする場合」についても、イエスは同じ戒めを教え諭しています。

 断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをしてはいけません。
 彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのです。
 彼らはその報いを受けてしまっています。
 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
 それは断食をしていることを人に知られず、隠れたところにおいでになるあなたの父に知られるためです。
 そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるでしょう。
 (マタイによる福音書)

  断食は文字どおり「食を断つ」ということで、一般的には苦行のひとつと考えられています。今日でも、宗教や宗派によっては修行の一環として行なわれています。その時に、「私はこのように大変な苦行を行なってるのだ」という顔をしている人は、すでにこの世で「誇らしげな気持ち」という報いを受けてしまっているということです。ですから、断食をしていることを人に見せようとせずに、隠れたところにいる父(=神さま)にだけ見てもらうつもりでやりなさい、と諭しているのです。

 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、
 また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはなりません。
 むしろ自分のため、虫も食わさず、さびもつかず、
 また、盗人らが押し入って盗み出すことのない天に、宝をたくわえなさい。
 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできません。
 一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方を親しんで他方をうとんじるからです。
 あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできないのです。
 (マタイによる福音書)

  結論から申しますと、この世(三次元の物質世界=地 earth )での富 riches すなわち「現世利益」を追求する人は、神の国 the Kingdom of God に富を積むことはできないということです。「人は神 God と富 money に兼ね仕えることはできない」からです。英訳本では、ここの部分の「富」は moneyお金)として、他の部分の「富 riches 」とは区別しています。
  「お金」はこの世でしか通用しない「現世利益」の象徴です。これまで人々は、自分の願いごとや幸せの実現のためのバロメーターとして、お金を追い求めて来ましたが、これから訪れる新しい世界(神の国)ではお金は必要とされないようです。『大本神諭』や『日月神示』にも全く同じことが述べられています。

 「天国は、一粒のからし種のようなものです。
  ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいのに、成長すると、
  野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になります」。
  また、ほかの譬を彼らに語られた。
 「天国は、パン種のようなものです。
  女の人がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます」。

  (マタイによる福音書)

  どんな種よりも小さなからし種でも、それを畑に蒔くと野菜の中では一番大きく成長するということに譬えて、神の国では、人が心で思ったことが何十倍、何百倍もの大きさに育つということを言っています。また、粉に混ぜると全体を大きく膨らませるパン種(イースト)のように、神の国では私たちの小さな思いが何十倍にも大きく膨らんでいくということです。つまり、「善因善果、悪因悪果」が、この物質世界よりもはるかに大きなスケールで実現するということを言っているのです。
  いかに心のコントロールが大切かがわかります。その心をコントロールする方法を、人類はこれまで転生を繰り返す中での様々な人生体験を通して学んできました。そして、いよいよその学びの成果が試される卒業期を迎えているということです。

 イエスは譬(たとえ)で多くの事を語り、こう言われた。
 「見なさい、種まきが種をまきに出て行きました。まいているうちに、道ばたに落ちた種がありました。すると鳥がきて食べてしまいました。ほかの種は土が薄い石地に落ちました。そこは土が深くないので、すぐ芽を出しましたが、日が上ると焼けて、根がないため枯れてしまいました。ほかの種はいばらの地に落ちました。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまいました。ほかの種はよい地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなりました」。

 「だれでも御国の言葉を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行きます。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことです」。

 「石地にまかれたものというのは、御言(みことば)を聞くと、すぐによろこんで受ける人のことです。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまいます」。

 「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞いても、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことです」。

 「また、よい地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことで、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのです」。

 また、ほかの譬を彼らに示して言われた。
 「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものです」。
                       
 (マタイによる福音書)

  たとえば「汝の隣人を愛しなさい」というイエスの教えを実践しようとしても、すぐにそのことを断念させるような出来事が起こり、その気持ちをぐらつかせてしまいます。それは、「悪い者=悪魔 the Evil One 」が来て「まいた種」を奪い取ってしまうからです。悪魔は、人びとがお互いに愛し合う気持ちを持つのは困るのです。
  その他、イエスの時代であれば、困難や迫害によって隣人を愛する気持ちが失われることも多かったことでしょう。「世の心づかい the worries about this life 」や「富の惑わし the love for riches 」が決意をぐらつかせるのは今日でも同じです。
  御言(みことば=神の国についての教え the message about the Kingdom )を聞いて理解した人だけが、そのようなさまざまな現世利益の誘惑に打ち克って、神の国へ入ることができるということです。

 あなたがたに言うが、
 「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

 (マタイによる福音書)

  現世利益を追い求め、それを享受し、満喫している人は、神の国には入れないということです。これは決して「持たざる者」を慰めるための言葉ではないのです。まさに「カルマの法則」そのものと言えるでしょう。「天の倉」に「富」を積むこと、すなわち「身魂磨き」こそが、私たちの人生の目的と言えるものなのです。


この世では幼子のように自分を低くしなさい

 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った。
 「いったい、天国はだれがいちばん偉いのですか」。
 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた。
 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないでしょう。
 この幼な子のように自分を低くする人が、天国ではいちばん偉いのです」。
 (マタイによる福音書)

 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。
 「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、
 また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっています。
 あなたがたの間ではそうであってはなりません。
 逆に、あなたがたの間で偉くなりたいと思う人は仕える人となり、
 あなたがたの間でかしらになりたいと思う人は僕(しもべ)とならねばなりません」。
 (マタイによる福音書)

 だれでも自分を高くする人は低くされ、自分を低くする人は高くされるでしょう。
 (マタイによる福音書)

 神は高慢な者を敵とし、謙遜な(humble)者には恵みをお与えになります。
 (ヤコブの手紙)

 主の前にへりくだりなさい(humble yourself)。
 そうすれば、主があなた方を高めて(lift you up)くださいます。
 
(ヤコブの手紙)

  新約聖書の中には、人が高慢になることを戒め、「幼子のように謙虚でありなさい」と教え諭す表現が随所に出てきます。中でも、「神の前に謙虚であれ」という意味は、今日における科学万能主義を戒める言葉と受け止めるべきでしょう。「大本神諭」や「日月神示」が、「学」に頼りすぎて「神」を軽視している現代人を戒めていることとも相通じるものがあります。
  またこれは、財産、地位、名誉などの現世利益を手に入れて慢心している人への戒めの言葉と解釈してもよいでしょう。大切なのは、「神(絶対神)に対して謙虚である」ということです。より具体的に言えば、「今日の物質文明が創り出しているさまざまな問題は、人類が驕り高ぶっていることの表れであることを認識し、謙虚に反省する気持ちを持ちなさい」ということでもあります。「神の国の住人」になることを願う人にとっては、肝に銘じておく必要のある教えと言えます。


神の力を疑ってはなりません

 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためにひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが船は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりしなさい。わたしです。恐れることはありません」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは船からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い人よ、なぜ疑ったのですか」。
 (マタイによる福音書)

 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った。「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからです。よく言い聞かせておきますが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るでしょう。このように、あなたがたにできない事は何もないでしょう」。
 (マタイによる福音書)

 朝早く都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかには何も見当たらなかった。そこで木にむかって、「今から後いつまでも、あなたには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞ききなさい。もしあなたがたが信じて疑わなければ、このいちじくにあったようなことができるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるでしょう。また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるでしょう」。
 (マタイによる福音書)

  終末の後に訪れる新しい世界(神の国)へ入るために最も大切な心の姿勢は「神の力を信じること」「その同じ力が自分の中にも宿っていることを信じること」だということです。イエスは弟子たちにそのことを繰り返し教え諭しています。また、イエスの超能力の噂を聞いて集まってくる人たちに対しても、病気を癒したり、悪霊を追い出したりするなかで、その都度「信仰 faith 」の大切さを説いているのです。
  日本語で「信仰」というと「宗教団体に属しているかどうか」という意味にとらえがちですが、イエスが述べている「信仰」は宗教とはまったく関係ありません。なにしろ、この時点ではまだキリスト教も誕生していなかったわけです。
  ということで、ここでの「信仰」とは「神の力を信じる気持ち」ということです。イエスは、その「神の力」が一人ひとりの人間にも具わっているのだよと教えているのです。そのことを信じて疑わないならば、海の上を歩くこともできるし、山を移動させることだってできるのだと述べています。それは「神の国」に入るための必要条件とでもいうべきものなのです。
  「神の力」にも匹敵する「力」は、おそらく終末の土壇場で発揮されることになるでしょう。もはやこの物質界には頼るものがないという絶望感から、身を投げ出す心境に至ったとき、突然神憑かりが起こり、人は信じられないような力を発揮することになるはずです。一般的に「火事場の馬鹿力」と呼ばれている現象が、多くの人に連鎖して一斉に起こると見ています。
  そのためには、お金を初めとするこの世のものに頼る気持ちを早く捨て去り、すべてを神に委ねるという「神頼み」の心境になっておくことが必要でしょう。その気持ちのことを、イエスは「信仰」と述べているのです。



人を裁いてはいけません

  ここでもう一度、「新約聖書は、イエスという超能力者が2000年前のユダヤの人たちに終末の生き方を教えた言行録」であるということを確認しておきたいと思います。
  聖書は、決して「キリスト教徒の持ち物」ではありません。イエスはキリスト教という宗教団体を作ろうとしたわけではなく、ただ弟子たちに「私の言ったことを多くの人に伝え広めなさい」と指示しただけです。なぜ伝える必要があるかといえば、それは「終末において天の父による人類の審判が行なわれるときに、選ばれる側(羊にたとえられる)に置いてもらえるように」ということです。
 イエスは、終末の土壇場で人は羊と山羊を分けるように選別されると述べています。そして、「選ばれるためにはどうすればよいのですか」という弟子たちの質問に対して、いろんな譬えを使いながら、大切な戒め commandment について教えているのです。
 次の一文もその戒めを述べた内容ですが、質問の中にある「永遠の命を得る」ということが「選ばれて神の国に入る」という意味に使われています。

 ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った。
 「先生、永遠の生命を得るには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた。
 「‥‥もし、(永遠の)命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
 彼は言った。「どのいましめですか」。イエスは言われた。
 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』、
  そして『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』です」。
 
(マタイによる福音書)

  「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え」という戒めについては、今日の日本社会においてもっとも声高に叫ばれないといけない内容と言えそうです。イエスの生きていた時代もそのような乱れた世の中だったのかもしれませんが、それにしましても、まるで今日の世の中を見通していたかのような内容であることに驚きを覚えます。今日では子の親殺し、親の子殺しのニュースさえ珍しくなくなってきました。
  イエスが終末に大切になる戒めの中に「父と母を敬え」という内容を含めたのはなぜでしょうか。その点は後ほど別項で説明してまいります。
  さて、本日の表題にしている「人を裁いてはいけません」という内容は、マタイによる福音書では、イエスの言葉として次のように表現されています。

 人を裁いてはいけません。自分が裁かれないためです。
 あなたがたが他の人を裁くその裁き方で、自分も裁かれ、
 あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるでしょう。
 なぜ兄弟の目にある埃(ほこり)を見ながら、自分の目にある埃を認めないのですか。
 自分の目には丸太があるのに、どうして兄弟に向かって、
 「あなたの目から埃を取らせてください」と言えるでしょうか。まず自分の目から丸太を取り除きなさい。
 そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から埃を取り去ることができるでしょう。
 (マタイによる福音書)

  まず、「人を裁く judge 」とは具体的にどういうことでしょうか。それを別な言葉で言うならば「自分の基準で人の言動の善悪を判断し、それによって好悪の感情を抱く」ということでしょう。「善(と思う行為)を喜び、悪(と思う行為)を嫌悪する」ということになります。
  その結果、その人は「自分が量ったのと同じ秤(はかり)で量り返される」と述べられています。その「同じ秤」とは、「喜ぶ気持ち」には「喜ぶ気持ち」が返り、「嫌悪する気持ち」には「嫌悪する気持ち」が返ってくるというカルマの法則を述べているのです。
  では、人を裁かないためにはどうすればよいのでしょうか。人の言動の善悪によって、感情を左右されないということです。そのことを、イエスは「あなたの敵をも愛しなさい」「右の頬を打たれたら、左の頬をも出しなさい」という極端な譬えを使って表現していました。
  だから、十字架にかけられた自分を口汚く罵ったり、投石したりする群衆に対しても、イエスは神への祈りの中で、「あの人たちを許してあげてください。自分たちが何をしているかわからない(気の毒な)人たちなのです」と述べ、決して怒ったり憎んだりしていないのです。
  上の文章は、続けて「兄弟の目にある埃 speck を取ろうと思う前に、自分の目についている丸太 log を取り除きなさい」と諭しています。「他人の中に見える欠点が気になるのは、それは自分の中に同じ欠点があるからだ」と言われますが、まさにそのことを述べているのです。しかも、他人の目についているのは小さな埃であるのに対して、自分の目についているのは丸太のように大きなものだと述べています。つまり、他人の欠点は小さなものでも気になるが、自分の欠点は非常に大きいものであっても気がつかないものだということを例えているのです。
  他人の欠点を見て嫌悪したり憎悪したりして心を曇らせると、自分は終末の大峠においてその数十倍も、数百倍も嫌悪され、憎悪されるということを教えてくれています。
  結論として、「人を裁く」という意味は、「他人の言動に対して悪い感情を持つ」ということであると理解しておきたいと思います。「人を呪わば穴二つ」という諺と同じく、カルマの法則そのものを述べていることがわかります。さらにシンプルな表現として、新約聖書の中の次の言葉も記憶にとどめておきたいものです。

 あなたがたも、もし心から兄弟を許さないならば、
 わたしの天の父もまた、あなたがたに対してそのようになさるでしょう。
 (マタイによる福音書)


心の中に悪い思いを持たないようにしなさい

  「新約聖書が教える究極のカルマ清算法」の7番目は「自分が他の人からしてほしいと思うことを、他の人にもしてあげなさい」ということでした。「与えたものが返ってくる」というカルマの法則をストレートに反映した行動指針と言えます。
  同じ意味の裏返しの表現である「自分がしてほしくないことは、他の人に対してもしてはいけません」という言葉とセットで記憶にとどめておきたいと思います。新約聖書の中では、この内容が次のように表現されています。

 他の人からしてほしいと思うことは何でも、あなたがたも他の人にしてあげなさい。
 これこそが律法(the Law of Moses)と預言者たちの教えの意味するところ(meaning)です。
 (マタイによる福音書)

  「究極のカルマ清算法」の8番目は「心の中に悪い思いを持たないようにしなさい」ということでした。これは「身・口・意をコントロールすべし」という身魂磨きの要諦を述べたものです。このことに関する新約聖書の記述を見てみましょう。

 人の口からは心の中に溢れていることが出てくるのです。
 善い人は善いものを入れた蔵から善いものを取り出し、
 悪い人は悪いものを入れた蔵から悪いものを取り出してきます。
 裁きの日には、あなたがたは自分が口にしたつまらない言葉の責任を問われることになります。
 自分が使ってきた言葉によって、罪があるかないかの審判を受けるのです。
 (マタイによる福音書)

 口に入るものがあなたがたを汚すのではなく、口から出ていくものがあなたがたを汚すのです。
  (中略)
 口から出ていくものは心から出て来ます。
 そして、それがあなたがたを汚すことになります。
 あなたがたの心からは、悪い思いが出て来ます。
 すなわち、殺意、姦淫、みだらな行ない、盗み、嘘、他人の悪口などは、
 あなたがたの心から出て来るものです。
 これがあなたがたを汚すのです。

 (マタイによる福音書)

  私たちが普段何気なく使っている言葉が、私たちの心の反映であることは言うまでもないことでしょう。「心にもないことを言ってしまった」という言い方をすることもありますが、そういう場合でも実際は心の奥底(潜在意識)に眠っている本音が無意識のうちに言葉となって現れたと見るべきです。
  心に悪い思いを抱けば、それは必ず言葉となって現象化し、善くないカルマをつくってしまうということで、まず心の調律から始めることが必要であるのは言うまでもないでしょう。カルマの清算のためには、日頃から心の中に悪い思いを持たないようにすることが大切であることを肝に銘じておきたいと思います。


父と母を敬いなさい

  「新約聖書が教える究極のカルマ清算法」の最後は「父と母を敬いなさい」ということでした。一見、平凡な道徳律のように見えます。儒教などでも「親孝行をしなさい」「親を大切にしなさい」と教えているからです。
  しかしながら、新約聖書が「父と母を敬いなさい」ということを大事な戒め commandment として強調していることには深い意味が隠されていることがわかります。
  まず注目する必要があるのは、「愛しなさい love 」とせずに「敬いなさい respect 」としたのはなぜなのかということです。「神を愛しなさい」「隣り人を愛しなさい」というように、他の箇所では「愛しなさい」という表現が使われているのに、「父と母」に関してだけ「敬いなさい」という言葉にして使い分けているのには何か意味があるはずです。
  では、まず新約聖書のその部分を見てみましょう。

 神は「あたたがたの父と母を敬え」と言われ、
 「もし父または母を罵る(curse)者があれば、その者は死刑に処せられるべきである」
 と言っておられます。

 (マタイによる福音書)
 ( curse=(人に、人・過ちなどに)悪態をつく・ 罵る・〈神・神聖なものに〉不敬の言を吐く・冒涜する

 ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った。
 「先生、永遠の生命を得るには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
 イエスは言われた。
 「‥‥もし、(永遠の)命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
 彼は言った。
 「どのいましめですか」。
 イエスは言われた。
 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』、
   そして『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』です」。
   (マタイによる福音書)

  イエスは神の言葉として、「父や母を敬わない者は死刑に処せられるほど罪が重い」と述べています。この日本語版の新約聖書は「罵る」と訳している部分が、英訳では「curse」となっています。この言葉は「呪う、罵る」という意味のほかに「不敬」という使い方がされますので、「父や母を罵る」という行動レベルの戒めというよりも「父や母を敬わない」という心のレベルの問題と解釈すべきでしょう。「敬う」の反対が「罵る」ということでは極端すぎるからです。
  「敬わない」の部分を「粗末にする」「大切にしない」という行動レベルの表現に変えれば、儒教の教えと同じような道徳律になります。しかしながら、新約聖書がここで述べているのはそういう行動レベルのことではなく、「curse呪う、敬わない)」という「心」に関する問題なのです。ここが重要なポイントです。
  そもそも「父や母を大切にしない」ことが死刑に値するほど罪が重いとは考えられません。単に親孝行を奨励するためであれば、もっと穏やかな表現でもよいはずです。たとえば「父や母を大切にしないひとは幸せになれない」といった表現で十分なはずです。
  しかも、既に父や母が亡くなった人や、親と離ればなれになって連絡がとれないような人などは、親孝行をしようと思ってもできないわけです。そのように対象とならない人が多く存在することを「永遠の命に入るための大切な戒め」にするとは思えません。


親を通じて魂のグループと波長を合わせること

  前置きが長くなりましたが、ここで私の解釈を申し上げます。
  私は、イエスが「父や母を敬いなさい」という戒めを強調したのは、「父や母と心の波長を合わせなさい」という意味だと解釈しています。肉体的に血のつながりの濃い父や母は、霊的に見てもこの世で最も波長の合う存在です。いわば自分と同じ魂のグループに属している先輩なのです。既に父や母が他界している場合は、父や母は最も身近なご先祖様ということになります。
 ですから、「父や母を敬う」ということは、自分の魂の系図に連なる先祖の霊たちを敬うということでもあるのです。私たちの指導役を務めている守護霊も、先祖の霊の中から選ばれると言われています。
  そういう意味では、父や母は(その霊は)、私たちが霊界における魂のグループとつながる時の入り口ということが言えます。父や母を敬うことで、心の波長が魂のグループと同調しますので、守護霊の働きも強化され、邪悪な霊のいたずらなどから防いでもらえるということです。
  逆に、霊界の邪悪な霊たちは、魂のグループとの霊的つながりを弱くしようとしてさまざまな手を使ってきます。親子の断絶が進んだ今日のわが国社会で、悪質な霊の干渉によると思われる凶悪な犯罪が多発するようになったのも、多くの人が自らの魂のグループとのつながりを弱くしてしまっていることの現れでしょう。
  超能力者のイエスにはそのような霊界のメカニズムがわかっていたので、人が自らの魂のグループとの霊的つながりを強くするための有効な手段として「父や母を敬いなさい」という戒めを強調したものと思われます。
  普通の人は「守護霊を敬いなさい」と諭されても、守護霊の姿を思い浮かべることはできませんが、父や母であればいつでも瞼に浮かべることができるはずです。いわば魂のグループの代表としての父や母を敬う気持ちを強く持てば、その心の波長は守護霊や守護神のところに届き、守護霊の指導も受けやすくなるということです。「敬う」「感謝する」という心の状態は、その対象と波長を同調させる上でもっとも効果的なのです。
  逆に、そのような魂のグループにつながる入り口とも言える父や母を敬わず、逆に呪ったり、罵ったりするようなことがあれば、守護霊や守護神とのつながりも弱くなってしまいます。その結果、邪悪な霊たちの餌食になりやすい状態が生まれるということです。新約聖書によりますと、イエスの時代には悪霊に取り憑かれた人が非常に多かったことが記録されています。
  イエスは人に取り憑いた善からぬ霊を肉体から追い出しています。その結果、イエスの超能力ぶりが知られることになり、人びとがイエスの周りに押し寄せてくることになったのです。
  また、聖書の戒めが父や母に関しては「敬いなさい」として「愛しなさい」としなかった理由は、「肉親を愛する」という気持ちは仏教で言う「煩悩」的なものになってしまう可能性があるからだと思われます。自分の肉親を愛する気持ちは、現世での幸せに執着する粗い波長になり、神の繊細な波長とはかけ離れたものになってしまうということです。
  ということで、「愛しなさい」という表現では戒めの意味するところが誤解されるおそれがあるため、父や母に関しては「敬いなさい」という表現になったものと考えられます。