元記事は、こちらのサイト様の「
タイタニック沈没から始まった永遠の旅(ブルーアイランド)です。

 この記事は「タイタニック沈没から始まった永遠の旅(旧名:ブルーアイランド)
」という図書の中の【想念・思念】に関する内容です。想念・思念とは【心の動き】のことです。この著書は有名な「高級霊界通信」のひとつですが、人間が軽視しがちな『心の動き』に対して、霊界側から「心の使い方を甘く見てはいけない、正しく使わなければいけない」と啓示してくれている内容です。

 本文で「地上生活」とありますが、これは「人間が人間界に生まれてから死ぬまでの期間」を指します。つまり、人間の人生の期間である「人間時代」のことです。肉体の死後は、自分の心は「霊的生命の次元世界」に移行します。

 『心の動き』である想念(思念)は目には見えません(想念は「霊的磁気」なので、他の磁気と同様に目に見えません)。ところが、想念は目に見えないだけで、ちゃんと存在して自分や周りに影響を与え続けています。心動くところに想念という念波が発生しているのです。物理的な電波が様々に作用するように、善想念ならば善作用が、悪想念ならば悪作用が、目に見えないところでしっかりと働いて作用しているのです。
 この図書は、想念とは一体どのように働き、どのように作用しているのか、これを知ることのできる良質な資料のひとつです。ぜひ、ご覧になってみてください。ご自分の『心』に対する認識が変わるかもしれませんよ♪

 私は、癌治療にも『感謝の想念』が大事だと思っています。『感謝の想念』は、れっきとした「想念治療」です。これに怪しさを感じる方は、「想念」という生き物のことが分かっていません。ただ、分かっていないだけなのです。これに関しては、当ブログサイトの以下の記事を、ここでご紹介します記事と併せて読まれてみてください。要は、自分が一体「何に帰着できるか」です。想念の質(心質)は、自分の意識次第で変わります。想念のコントロールも、ご自分の人生に活かしてみましょう!

   人間の「心の動き(想念)」とは何か?」  自分の思いを大切に活かす(感謝で癌を溶かす)





タイタニック沈没から始まった永遠の旅

(旧名ブルーアイランド)

エステル・ステッド(著)/ 近藤千雄(訳) ハート出版  1992年刊



 5章 良心の声

 この地上生活において、やって良いことといけないことについては、賛否両論がよく闘わされます。やりたくても控えねばならないことがあるかと思うと、思い切りよく実行に移さないといけないこともある・・・・・・・ 一体なぜでしょうか。

 
「そんなこうるさいことに拘(こだわ)っていたら商売は上がったりさ」―― そんなことを言う人もいるでしょう。大っぴらには言わなくても、内輪ではそう言っているに相違ありません。なぜいけないのかが理解できないわけです。しかし、理由はちゃんとあるのです。しかもそれは、常識的に考えれば容易に理解できることなのです。いささか固苦しくなりますが、私はこれを因果律(いんがりつ)の問題として位置づけたいのです。

 
宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密(ちみつ)さをもって計画されました。その究極の目的は各個に自由闊達な発達と進化をもたらすことです。そのための摂理は厳然としています。不変絶対です。各自は、良心という本能によって、今自分の行なっていることが摂理に適っているか反しているかを直感しております。交通取り締まりのお巡りさんのような人から教わる必要はないのです。

 
もちろん、自分自身を欺(あざむ)いて “これでいいんだ” と主張することはできます。しかし、そう主張しながらも、心の奥では本当はいけないのだという意識を打ち消すことができずにいます。私は敢()えて申し上げます ―― この事実に例外はない、と。つまり良心は必ず知っているということです。ところが大体の人間は、知らないことにしたがるものです。これは “深刻” な意義をもつ “問題” であることを認識してください。

 
この種の問題を大抵の人は “善悪” の観点からではなく “損得” の勘定によって判断しております。動機の善悪の区別がつかないわけではありません。

 
ちゃんと識別できるのです。

 
そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。ところが厄介なことに、人間は習性や損得勘定、社交上の面子(めんつ)から、因果律がめぐりめぐって生み出す結果を考慮せずに、目先の結果にこだわってしまいます。

 
実に残念なことです。が、死後の世界との関連からいうと “残念では済まされない”、可哀そうな、あるいは気の毒な事態となっていくのです。不快な思い、辛い苦しみのタネを蒔いていることになるのです。火炎地獄などというものは存在しません。精神的苦悶という、みずからこしらえた地獄が待ち受けているのです。

 
人間の自我、ないしは霊は、精神の中に存在しています。言い換えると、霊が脳という器官を通して意識活動を始めた時から、徐々に精神が構成されてまいります。その脳は、生理学的に解部しただけでも、科学者にとって “最後の秘境” ともいうべき驚異の世界ですが、これを自我の道具として観察した時、いっそう微妙で複雑で、謎は深まるばかりです。たとえば、精神はあらゆる思考と行動の原動力であるという事実では理解できます。が、その思考と行動の全てが精神に “書き込まれている”、つまり記憶されているそのメカニズムはどうなっているのかとなると、到底理解できないでしょう。

 
仮にあなたがどこかの店で “付け” で買い物をします。すると何日かして請求書が届きます。それを払い込みます。するとあなたは、その時点でその買い物と支払いに関する一切のことを忘れます。ところが、その店には全ての記録がいつまでも残っています。精神の記憶も同じです。あなたの意識にのぼらなくても、内容のいかんにかかわらず、全てが記憶されているのです。

 
その勘定の決済日が死後に訪れるというわけです。支払いを済ませば、帳簿の方はそれで用事がなくなり、安心です。が、記憶そのものは、その後もずっと残り続けます。

 
さて、ここでしっかりと銘記(めいき)していただきたいのは、精神とその産物、すなわち思念は、地上に存在するあらゆるものを始動させ創造していく原動力だということです。物的なものも、元はといえば精神的なものに発しております。それはもう説明するまでもないでしょう。聳(そび)え立つビルも、最初は思念として設計者の頭の中に存在を得ていたのです。

 
思念は、分類すればいろいろなタイプに分けることができるでしょう。昼の食事は何にしようかといった他愛ないものも、やはり思念の一つでしょう。が、価値あるものを生み出していく建設的な思念と、反対に害を及ぼす破壊的な思念とがあります。大切なのは後者の方です。ただし、食事だの、衣服だのといった純粋に個人的なものも、確かに他愛ないものではあっても、それが建設的な思念を妨げるほどになると、破壊的な性格を帯びるようになります。

 
地上生活でなめさせられる辛酸(しんさん)の大半は、自分自身の間違った思考が原因です。もちろん、生まれ落ちた境遇が一人ひとり異なることは私も百も承知の上でそう述べております。両親から不幸と不遇を引き継いで生きる人は、恵まれた条件のもとに生をうける人よりも生活が辛く、楽しみが少ないにきまっています。しかし、そうした地位や生活条件の相違におかまいなく、思念の摂理(せつり)は平等に働きます。どちらが有利ともいえないのです。それを分かり易く説明してみましょう。

 
生まれながらにして過酷な生活環境に育った人間は、物の考え方に一つの形 ―― レコード盤に刻み込まれた溝のようなものが出来あがっております。他人から物的援助を受けるようなことはあっても、そういう固定した物の考えを変えさせるような精神的援助は、まず期待できません。気の毒ではあっても、その人は生涯その不利な条件を引きずって生きなければなりません。

 
それは、別の角度から見れば、人生についてまったく無知 ―― そういう生き方以外の人生については何も知らずに終ります。過酷な生活環境を改善する余裕などあろうはずもなく、ひねくれた感情の積み重ねがますます環境を悪化させていきます。

 
では物的に恵まれた環境に生をうけた人間はどうかといえば、物的な悩みや苦しみがないということが、やはり結果的には前者と同じ精神的退廃をもたらします。同じ “わだち” の上をだらしなく歩き続けるだけで、精神は沈滞の一途をたどります。かくして、両者とも死後の境遇をみずからこしらえていくのです。

 
しかし、この両者はその影響の及ぶ対象が自分自身だからまだしも救われるのです。これが他人へ迷惑が及ぶ思念の使い方をするタイプになると、死後の報いはもっと深刻です。

 
たとえば悪知恵のよく働くタイプの人間がいます。他人への迷惑などまるで考えずに、自分の利害を素早く計算して、事を推し進めます。こうしたタイプの人は、破壊的思念の中でも特に影響力の強い思念を出していることになります。思念の悪用の最たるものであり、こちらへ来てから支払わせられる代償は、前者のタイプに比べて、はるかに重くなります。なぜならば、放射した貪欲(どんよく)な思念が強固な壁をこしらえており、それをみずからの力で片づけなければならないからです。

 
いかなる種類のものであろうと、あなたが一度その心に宿しそして放出したものは、精神世界に関するかぎり、すでに一つの既成事実となっております。つまりその考えに基づいて行動を起こす起こさないに関係なく、精神的にはあなたの一部を築いているということです。

 
湧いては消えていく取り留めもない雑念は別です。これは大して影響力はありません。私が言っているのは、あなたの個性が反映している明確な考えのことです。それは、いったん心に抱いたら、精神世界に関するかぎり実行したのと同じことであり、良いにつけ悪いにつけ、その報いをこちらへ来てから受けることになります。

 
そう言うと、心に思ったことをそんなに一々良心に照らしてコントロールしていたら身がもたないよ、とおっしゃる方がいるかも知れません。それは私も同感です。が、百パーセントはできなくても、私が述べたことを事実と受け留めてくだされば、その後のあなたの精神活動に、これまでとは違った厳しい目を向けるようになることでしょう。精神活動こそ大事なのです。

 
良心を欺(あざむ)いた自覚をすることは、他人にそれを知られることよりも、さらに辛いのです。静かに良心の声に耳を傾けてみられるがよろしい。



 
7章 思念の力

 地上の人間にとっては、死後の存続の確実な証拠というと、生前の姿をまとって出て来てくれることのようです。今こうして私がお届けしているような精神的ないし主観的な通信は、たとえどんなに説得力のあるものであっても、“証拠” としては受け入れ難いようです。そこで、ほとんどの人が物質化現象にばかり関心がいって、本当はもっと真実味があり、外部の要素 ―― 霊媒の意識・列席者の猜疑(さいぎ)心や偏見等 ―― による影響を受けることが少ない、“思念による交霊” を軽視してしまいがちです。が、実は、この思念伝達という手段は、その可能性を信じている人が想像しているよりも、はるかに実感があるものなのです。

 生前から親密な間柄だった者のことを強く念じると、その念は生き生きとして活力のあるエネルギーとなり、電波とまったく同じように宙を飛び、間違いなくその霊に届きます。たとえば地上のAという人物がBという他界した人物のことを念じたとします。するとBは瞬時にその念を感じ取ります。こちらへ来ると、感覚が地上時代よりもはるかに鋭敏になっておりますから、そちらから送られた思念は電波ならぬ思念流となって、直接的に感知され、そこに親密な連絡関係が出来あがります。

 こちらへ来て間もないころは何も出来ませんが、こちらの事情に慣れてくると、BはAにその回答のようなものを印象づけることが出来るようになります。AはそれをBからのものとは、まず思わないでしょう。たぶん自分の考えか、一種の妄想くらいにしか思わないでしょう。が、そういう形で届けられている情報は、実際は大変な量にのぼっています。霊の実在を信じている人だけに限りません。誰でも、どこにいても、意念を集中して地上時代に親交のあった人のことを念じると、必ずその霊に通じて、その場へやってきてくれます。人間の方は気づかないかも知れませんが、ちゃんと側に来てくれております。

 この事実から地上の皆さんにご忠告申し上げたいのは、そういう具合に人間が心で念じたことは “全て” 相手に通じておりますから、想念の持ち方に気をつけてほしいということです。想念にもいろいろあります。その全てがこちらへ届き、善きにつけ悪しきにつけ影響を及ぼします。霊の方はその全ての影響をもろに受けるわけではありません。意図的に逃れることは出来ますが、逃れることが出来ない者がいます。それは、ほかでもない、その想念を発した地上の本人です。想念は必ず本人に戻ってくるものだからです。

 
今私は、全ての想念が届くと申しましたが、これには但し書きが必要です。

 “心をよぎった思い” の全てが届くわけではありません。とくに強く念じた思い、片時も頭から離れないもの、という意味です。摂理の観点からいえば、心に宿したことは大きいことも小さいことも、それなりの反応はあるはずです。が、影響力という観点からいえば、たとえば怨(うら)みに思うことがあったとしても、それが抑え難い大きなものに増幅しないかぎり、大した重大な影響は及ぼしません。

 ですから、私が “全ての思念” という時は、思いやりの念にしろ邪悪なものにしろ、一心に集中している場合のことを言っているのであって、日常のあれやこれやの “よしなごと” のことではありません。が、そういう前提があるにしても、心に宿した想念が何らかの形で他に影響を及ぼし、最終的には自分に戻ってくるという話は、容易に信じ難い人が多いことでしょう。しかし、事実なのです。

 実は皆さんは、同じ影響を人間どうしでも受け合っているのです。たとえば、相手がひどく落ち込んでいる場合とか、逆にうれしいことがあって興奮ぎみである場合には、あなたも同じ気分に引き込まれるはずです。それは、言うまでもなく精神的波動のせいであり、沈んだ波動と高揚した波動がその人から出ているわけです。

 
強さという点では、両者は同じです。しかし、その作用の仕方が異なります。強烈な想念の作用も同じと思ってください。それを向けられた当事者は、そうとは意識しないかもしれません。が、無意識のうちに、大なり小なり、その影響を受けているばかりでなく、大切なのは、想念そのものは、それを発した人の精神構造に強く印象づけられていて、表面上の意識では忘れていても、事実上、末永く残って影響を及ぼしていることです。

 
死んでこのブルーアイランドに来ると、その全記録を点検させられます。

 
ガウンを着た裁判官がするのではありません。自分自身の霊的自我が行なうのです。霊的自我はそうした思念的体験を細大もらさず鮮明に思い出すものです。そして、その思念の質に応じて、無念に思ったり、うれしく思ったり、絶望的になったり、満足したりするのです。その内容次第で、もう一度地上へ戻って(注1)無分別な心と行為が引き起こした罪を、大きい小さいにかかわらず、全てを償いたいという気持になるのも、その時です。


【注1】

 ここでの意味は、必ずしも再生することではなく、その償いが叶えられる可能性のある地上の人間の背後霊の一人として働く場合もある。あるいは、交霊会を通じて地上の当事者に詫びの気持を伝えることもある。一九二〇年から週一回、六十年間にわたって、モーリス・バーバネルという霊言霊媒を通じて霊的教訓を語り続けたシルバーバーチと名のる霊が支配する交霊会で、次のような興味ぶかいことがあった。

 前にも一度シルバーバーチを通じてその交霊会のメンバーの一人に、地上時代にかけた迷惑について詫びを述べたことのある霊が、その日にまた同じことについての詫びを改めて届けてきた。そのとについてシルバーバーチがそのメンバーにこう語った。

 『あなたが “もういいのに” と思われる気持は私にもよく理解できます。でも、彼には詫びの気持を述べずにはいられない事情があるのです。懺悔(ざんげ)をするということは、あなたに対してというよりは、彼自身にとって意味があるのです。

 他界した者が地上時代の行為について懺悔の気持を何らかの形で届けたいと思うようになるということは、本当の自我に目覚めつつあることの証拠です。あなたにとってはもう過ぎたことであり、忘れていらしたかも知れません。が、その行為、ないしは事実は、霊的自我に刻み込まれていて、霊性が成長し、それについての正しい評価が下されるまでは、絶対に消えることはありません。』



 私が皆さんに、地上生活において精神を整え悪感情を抑制するようにとご忠告申し上げるのは、そのためです。地上生活ではそれがいちばん肝要(かんよう)であり、意義ある人生を送るための最高の叡智(えいち)なのです。厄介なことに人間は、地上にいる間はそのことを悟(さと)ってくれません。そう言い聞かされて、内心ではそうに違いないと思いつつも、それが現実の生活に生かされていません。皆さんの一人ひとりが発電所であると思ってください。他人にかける迷惑、善意の行為、死後の後悔のタネとなる行ない・・・・・・ どれもこれも自分自身から出ています。

 
そうした行為と想念のすべてが総合されて、死後に置かれる環境をこしらえつつあるのです。寸分の誤差もありません。高等な思念(良心)に忠実に従ったか、低級な悪想念に流されたか、肉体的欲望に負けたか、そうしたものが総合されて、自然の摂理が判決を下すのです。

 
地上時代のあなたは、肉体と精神と霊(自我)の三つの要素から成ります。死はそのうちの肉体を滅ぼしますから、霊界では精神と霊だけとなります(注2)。ですから、地上時代から精神を主体にした生活を心がけておくことが大切なわけです。むろん、常に選択の自由は残されていますから、やりたいことを好き放題やって、借りは死後に清算するよ、とおっしゃるのなら、それはそれで結構です。今までどおりの生活をお続けになるがよろしい。しかし、いったんこちらへ来たら、もうそれ以上は待ってくれません。このブルーアイランドできれいに清算しなくてはなりません。


【注2】

 実際に霊的身体、つまり精神と霊の活動の媒体がいくつかあり、挿画(イラスト)のように大きく三種類に分けるのがほぼ定説となっている。肉体と異なるのは一定した形態がなく、しかも意念の作用でいかようにも変形する性質があることである。

image87x24n

                        人体の構成
             Ruth Welch;Expanding Your Psychic Conscionsness より

 肉体が食欲と性欲を基本的本能としているように、幽体は情緒を、霊体は知性を、本体は叡智を基本的本能としている。地上生活ではその全てが脳を通して意識されるが、肉体が滅んだあとは幽体を通して発揮される。その界層を幽界と呼ぶ。幽体が昇華(しょうか)されるにつれて意識の中枢(ちゅうすう)が霊体へと移り、霊界で生活するようになる。さらにその上には本体を使って生活する神界がある。

 しかし、その生活形態が人間に理解できるのは幽界までで、それ以上になると言語による説明が不可能となるらしい。ここに描かれているのは、円満に、そして完全に発達した場合を平面的に図式化したものであって、実際には一人一人が霊性の発達程度に応じた形態をしているらしい。なお、三つの身体は図のように “層” を成しているのではなく、肉体の中にも他の三つの媒体が融合して存在している。

 各種の霊界通信が一致して述べているのは、人間にとって当たり前に思える地上生活の方が、死後の世界から見るといちばん不思議で奇妙に思えるということである。この種のテーマを理解する際に大切なのは、現在の自分の存在とその生活形態を当り前と思う固定観念をまず棄て去ることである。(訳者)



 神は地球を、人間が楽しめる魅力ある環境にしてくださいました。が、それは、人間をわざと悪の道に誘っておいて、後で懲()らしめようという魂胆(こんたん)からではありません。いかなる人間でも等しく満喫できるように、豊富な美と、それを味わう機能を与えてくださっています。精神が肉体をコントロールしているかぎりは、美は美であり続けます。肉体の欲望が先行し精神が墜落しはじめると、厄介なことが待ちうけるようになります。苦しみと後悔が山積みにされて待っております。

 精神の働きはこちらへ来ても同じです。同じ原理に従って働きます。思考力は肉体のあるなしには関係ありません。ですから、そのうち地上に残した愛する人たちとの精神的なつながりをもち、そして大きく影響を及ぼすようになるのは、さして難しいことではありません。もっとも、地上の当人はそうとは気づかないことが多いのですが・・・・・・。

 この事実のもつ意味をよくお考えいただきたい。他界した家族や知人・友人があなたのもとを訪れることがあるということ、思念こそ実質的な影響をもっているということ、霊との関係はもとより、同じ地上の人間との関係でも、それをうまく結びつけるのも、ぶち壊してしまうのも、呼び寄せるのも、あるいは追い払ってしまうのも、この思念の力であるということです。

 霊界と地上の二つの世界を結ぶのは、思念です。

 が、それには規律と鍛錬(たんれん)が必要です。頭にひらめいたものが全て霊の世界から届けられたと思ってはいけませんが、同時に、スポーツマンが身体を鍛えるように精神を鍛えれば、いざという時には、霊界からも地上界からも、大いなる叡智と援助を祈り求め、そして受けることができるのです。



                        


image2ferf53c252
image313xzr435xdr224r