日月神示の次の一節、


   まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ、
    悪の大将は光り輝いているのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。
(地つ巻 第十七帖)


 善を「良い・楽しい・嬉しい・快適」と置き、
 悪を「悪い・つまらない・悲しい・つらい苦しい」と置く、

 すると、これがまた、いろいろな食養観に重なって見えてきます。


 現代の日本人がお得意の『美食・飽食』は、一見「楽しい」ことのように見えますが、その積み重ねはやがて大なる「病苦」を生み出すことが多いものです。「楽」の正体が、「苦」であることがあるです。

 現代の日本人が苦手の『粗食・少食』は、一見「質素でつまらない苦しみ」のように見えますが、その積み重ねはやがて「無病息災」を生み出すことが多いものです。「つまらない苦しさ」の正体が、「楽しい喜び」であることがあるです。


 現代栄養学の言う『栄養満点の食事』をしていれば体に良さそうに見えますが、かえって、それで多くの人が血液を汚してしまったり、栄養摂取過剰による病気を引き起こしているものです。
 現代医学の言う『癌医療』を受ければ、まるで素晴らしい高度最先端癌医療を受けている心持ちになるかもしれませんが、かえって、それで多くの癌患者がよけい酷くなり、さらに癌が増え、本来ないはずの苦痛を背負って早死にしていくものです。
 「正当な学問・正当な専門家」の正体が、とんでもない「御無知様(無知野郎)」であることがあるです。

 食養学や自然医学・東洋医学のような古臭い未成熟に見える医学の言う『粗食』や『食事療法』の『少食』は、栄養失調を起こしてしまいそうで体に悪そうに見えますが、かえって、それで多くの人が血液を綺麗に浄化できたり、免疫が向上して高まったり、腸内が綺麗になって整腸されたり、腸内細菌が正されたりして、健康を取り戻していくものです。
 現代医学から逸脱した『癌理論』を正しく理解し、標準的な癌医療として正当扱いされている三大療法に反して、「食事療法」「少食療法」「断食療法」「飲尿療法」など社会的に胡散臭く思われている民間療法に徹するのは無謀の極みに見えますが、かえって、それで多くの癌患者が地道に癌体質を改善していき、もう癌が再発することのない体質を獲得して、安全に癌から生還しているものです。
 「インチキ」臭く、世間で「トンデモ」扱いされ、現代医学から白い目で見られて無視されている「癌治療」の正体が、「真の癌治療」であることがあるです。


 世間では、「抗がん剤」や「放射線」は癌を抑制して抑え、少しでも生命を延ばしてくれる治療だと思われているようですが、かえって、「抗がん剤」や「放射線」は癌細胞を殺して退治する前に、癌患者の生命を殺してしまうことが多いものです。ましてや、癌患者の「癌体質」をさらに深めて、不要な「二次発癌」を引き起こします。
 世間で「正当」と思われている医療の正体が、単なる「癌医療ビジネス」に堕している実態があるのです。

 世間では、『食事療法』は「ウサギのエサ」と卑下され、『少食』や『断食』は「危険」扱いされ、『飲尿療法』は「うわぁ~ バッチィ~(汚い)、あらま・・ フゥ~ケェ~ツゥゥ~(不潔)」と誤解を受けていますが、かえって、こういう太古から実績のある民間療法のほうが癌患者の癌体質を確実に改善させ、もう発癌しなくてすむような体質にまで高め、癌から生還させることが多いものです。
 世間にはなかなか理解されず、医学界からは完全に無視されているような医療の正体が、単なる「安全・確実・生還コース」である癌治療の真相があるのです。


 体のために一見良さそうに見える「病院の点滴」を受けたことで、かえって、慢性疲労症候群や膠原病など様々な医原病を引き起こしてしまっている現代医療の現実があるものです。
 「正当な医療」の正体が、「病人生産工場」であることがあるです。

 「好転反応」は一見悪そうに見えますが、かえって、その反応が体を治してくれるものです。
 体に起こる「つらい症状」の正体が、『症状、即、療法』としての「治療作業」であることがあるです。



 まァ~、このくらいにしておきましょう(汗)。

 みなさんは「まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ」の中に何を観ましたか?

 この啓示部分は、人間社会に潜む「パラドックス(paradox真逆の真理逆理)」を言っています。

 老子は、第二章でこのように言われています。



 【原文】
  天下皆知美之爲美。斯惡已。
  皆知善之爲善。斯不善已。

 【書き下し文】
  天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。 
  みな善の善たるを知るも、これ不善のみ。


 【現代語訳】
  世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。
  同様に善い事を善いと思うが、これは善くない事なのだ。


 【伊勢‐白山道の柔訳(参照)】
  世の人々は全員が、美しいものは美しいと認識している “つもり” だが、これは正しくは無いのです。
  世の全員が、善は良いものだと思っているが、これも正しくは無いのです。


 【ブログ管理人の勝手な意訳】
  世間の人々は皆、美しいものしか美しいと思えないようだが、これこそ悪態を生み出す元なのだ。
  世間の人々は皆、善行は善いとだけ思っているようだが、こんな視点しかない心は不善を生み出す元なのだ。





 老子 第二章で言われているのは「相対的な概念」です。人間は「Aは良いが、Bは悪い」というような偏った価値観に陥りやすい生き物です。たとえば、世間では「善は善い、悪は悪い」と思っている人が大多数でしょうけれど、天地自然の高次から見れば、本来は、善もなく、悪もなく、そこにはただ「善の役割」と「悪の役割」があるばかりです。しかも、「悪の役割」の内奥には「大いなる善の役割」があります。善と悪は互いに支え合い、この世が進歩・発展するために存在しているのです。

 私は老子 第二章の中に、奥深い「パラドックス(paradox真逆の真理逆理)」を感じました。
 上記の「私の勝手な意訳」をもっと細かく言いいますと、このような感じになります。

「世間の人々は、美しいものしか美しいと思えないようだ。美しいものだけが美しいと思っている。
 しかし、そのような感じ方では、真逆に位置する醜いものに対して、卑下する感情が生まれるだろう。
 この世に存るすべてのものは必要として存在しているのだから、美しいもののみならず、醜いものの存在も重要なのだ。
 真実をわきまえている人は、美しさの中に美しさを見つつ、真逆の醜さの中にも美しさを見出すものだ。
 世間の人々はこのことが分からないゆえに、美しいものの中にしか美しさを見出せず、真逆の醜いものを平気で卑下して蔑んでしまう。
 これでは、美しいものを美しいと感じた時点で、すでに醜いものを中傷する悪態が生まれているではないか。
 このような、誰かが蔑まされ傷つくような美的感覚は、決して正しくはないのだ。
 その美的感覚は、悪態を生み出す元になっているではないか。

 世間の人々は、このような美的感覚と同じ目線で善を見るから、間違いが生まれてしまう。
 世間の人々は善を善いことだと思っているようだが、先述したような美的感覚をもって見てしまうと、同時に不善が生まれてくる。
 そう、善に近い者は褒め讃えるが、善から遠い者は卑下し、蔑み、中傷してしまうのだ。
 その時点で、善が不善になっていることになぜ気づかないのか。
 そのような善的感覚では、善を思うのと同時に、無数の不善が生まれているのだよ。
 誰かが蔑まされ傷つくような善的感覚などに、最初から善などありゃせんよ。
 そんなものは、実に偏った善だね。早く気づいたらどうだろう。
 その善的感覚は、不善を生み出す元になっているではないか。」


 老子をよくご存じの方には大目に見て頂きたい勝手訳なのですが、私はこの短い2行の文の中に、以上のような感覚を覚えました。

 世間の人々は、美しいものを美しいと感じる半面で、美の反対側の醜いものに対しては卑しさを感じてしまう方が多いことでしょう。でも、その時点で、もはや美しさなど無くなってしまっているような気がします。

 真実や本物を探求する人たちは、案外と美の反対側の醜の中に、奥深い大いなる美を見出す傾向があるようです。たとえば、茶聖とも称せられた千利休。利休が一流の茶人として最後にたどり着いたものは、彩綺麗な美しい茶器ではなく、「詫び寂び」と言われる質素で粗末な茶器でした。真っ黒に黒ずんだ、誰が見ても醜い茶器です。しかし利休の眼には、それが一番美しく輝いて見えていた(感じていた)のです。美しさとは目で見るものではなく、心で感じ見出すものなのかもしれません。


 当ブログは「癌と食養」に関する内容なので、霊的な話はなるべく避けようとは思っているのですが、この話だけさせてください。

 西洋のスピリチュアリズム運動の中でいくつも降りた霊界通信は、そのほとんどが低級霊や邪霊のイタズラ通信であることが多いのですが、中には高級霊からの高度な通信もあります。世界中で愛され続けてきた「シャーロック・ホームズ」の生みの親であり、スピリチュアリズム運動の大家として知られています「コナン・ドイル参照)」は、この霊界通信のことを「電話のベル」と表現しました。霊界通信はインチキでも特別なものでも何でもなく、霊的世界と人間界とを「電話でつないだようなもの」だと言われたのです(現代で言えば、携帯電話通信ですね)。
スピリチュアリズムの霊界通信は、「スピリチュアリズム普及会」にていくつか無料で読めます。興味のある方は拝見されてみてください

 高級霊界通信では、高度な精神を持つ高級霊が、人間に様々な精神的啓示をしてきました。それらの内容は、人間の力だけでは到底知ることのできない殊玉の真理の数々でした。

 人間界に近い幽界には、人間界に重なるようにして無数の邪霊・悪霊がいます。大科学者と称せられた「エマニュエル・スェーデンボルグ」は、イタズラ霊とも呼ばれるこの邪霊・悪霊に関して「人間は、邪霊や悪霊といった霊存在が、如何に人間社会に害を成しているかを知らない」と言っています。スピ系でも、一般的には「邪霊・悪霊は、危険で卑しい霊存在」だと思われているようです。

 しかし、高級霊界通信を通して人間界に働きかけてきた高級霊たちは、この邪霊・悪霊を「醜い霊・卑しい霊」とは言いません。高級霊は、邪霊・悪霊という霊存在を「善や愛の尊さ、喜びについて、まだ理解できていない未熟な霊たち」と捉えています。そのため、邪霊・悪霊のことを「未熟霊」と呼んでいるのです。邪霊・悪霊に対しては「未熟(未発達)」と思うだけで、「醜い」「卑しい」とは決して思わないのですね。当然、嫌うことも蔑むこともありません。逆に、「いつ改心できるか」と見守っており、常に助けの手を差し伸べているのです。人間だって改心するのにはタイミングと時節が必要です。邪霊・悪霊たちも同じで、改心していくのにタイミングと時節が必要なのですね。高級霊は、邪霊・悪霊が改心して成長を遂げようとするタイミングを見逃さず、常に背後から邪霊・悪霊たちを見守っているのです。これが「高次の意識」なのですね。

 人間界でも、本当は同様なのです。世間の人々は、社会の外れ者や犯罪者など「邪や悪に染まっている人たち」を平気で責め、中傷し、蔑み、否定します。「そんあこと、当たり前じゃねぇ~か!」とさえ本気で思っています。しかし、これは正しくはないのです。邪や悪に染まってしまった人たちが改心できるようなサポート体制が大切なのです。でも、それがなかなかできない人間社会ですから、まだまだ人間の「善質」が未熟なのですね。


 日月神示には、このような一節があります(海の巻 第五帖)。

今日(こんにち)までの御教(みおしへ)は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、これが悪魔の御教ぞ、
  この御教に人民は、すっかりだまされ悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことのおろかさよ、
  三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、それははかなき水の泡、
  悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪は益々ふへるのみ、
  悪殺すてふ其のことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄ぞ、本来 悪も善もなし、
  (中略)
  善悪不二と云ひながら、悪と善とを区別して、導く教ぞ悪なるぞ、
  只御光の其の中に、喜び迎へ善もなく、悪もあらざる天国ぞ、皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし、

  (以下略)

 読みやすく直して、もう一度続けます。

「今日までの御教は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると言う、これが悪魔の御教ぞ。
 この御教に人民は、すっかり騙され悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ。
 三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願いしも、それは儚き水の泡。
 悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪はますます増えるのみ。
 悪殺すというそのことが、悪そのものと知らざるや。神の心は弥栄ぞ。本来、悪も善もなし。
 善悪不二と言いながら、悪と善とを区別して、導く教ぞ悪なるぞ。
 ただ御光のその中に、喜び迎へ善もなく、悪もあらざる天国ぞ、皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし。」


 人間には「邪や悪を退治して消してしまえば、それで解決する」という思考がずっとありました。人間は「悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来る」と思っていたのでしょう。しかし、現実はどうでしょうか? 人間の歴史は「悪を殺して人類の、平和を求め願いしも、それは儚き水の泡」の連続であったように思います。今日のような高度に発達した現代社会を人間がいくら築こうとも、その中身は「悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪はますます増えるのみ」という状態が続くばかりなのです。人間がいくら悪を退治しようとも、悪は決して消えませんでした。これは、人間が「悪殺すというそのことが、悪そのものと知らざる」ゆえに起こった結果です。

 日月神示は「悪抱き参らせて」とよく言われています。悪を殺すのではなく、悪を抱擁して抱き包み、悪が改心できるような進み方をして行かなければ、この人間社会には「輝く御代(真の平和な社会」など来ないという真理があるのでしょう。だからこそ、上記の高級霊たちはこの真理に則っているために、「悪抱き参らせる」という意識を大切にしているのではないかと思います。それが、高級霊の「未熟霊を助ける」という行動に現われているのですね。


 老子に戻りますが、老子は「世間の人々が認識している善など、不善に過ぎない程度だ」と言っています。老子が示している「真の善」とは、善と不善を分け隔てることで生まれて来る「差別」の中には存在しません。善にも不善にもそれぞれ重要な「役割」があり、どちらも「貴重な存在」であることを認識し、善と不善が共に調和し合うその中にこそ「真の善」があるのだと思います。まるで老子に「世間の善的感覚の中に、本当の善が、一体どれほどあるというのですか?」と問われているような心持ちになります。

 案外と、世の中に不善があるお蔭で、善は存在できるように支えられているのかもしれません(日月神示には「悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ」とあります)。不善()あっての善です。そうすると、もはやすべてが善になってきますね。この世の奥深い視点から見つめますと、善もなく、不善()もなく、すべてが善に映ってしまうのです。美もなく醜もなく、善もなく不善()もなく、ですね。私はそんな気がします。


 それで、どうしてこのような話をしたのかと言いますと、ここにも『癌』について理解させてくれるヒントがあるからです。上記の日月神示の「海の巻 第五帖」を『癌』に置き換えて見てみますと、やはり、森下・千島学説の「癌は血液の浄化装置(浄血装置)」という、癌の大事な「悪の御用」が見えてくるのです。

 ではここで、「海の巻 第五帖」を『癌』に置き換えて見てみましょう。
 かなり強引な置き換えになるかもしれませんが、広い心でついてきてください(汗)。

「今日までの現代医学は、癌を殺せば正常細胞ばかり、健康が守られるなどと言う・・・、これは悪魔の御教ぞ。
 この御教に国民は、すっかり騙され癌殺す、ことが正当な癌医療なりと、信ぜしことの愚かさよ。
 現代医学の鵜呑みから、幾千万の医師・国民が、癌を殺して人体の、健康を求め願いしも、それは儚き水の泡。
 癌殺しても殺しても、放射線で焼いても、抗がん剤をぶち込んで煮殺しても、
 高度最先端癌医療をしゃぶっても、癌はますます増えるのみ。
 癌殺すというそのことが、癌体質の悪化そのものと知らざるや。
 天地自然の仕組みは完全ぞ。本来、癌も正常細胞もなし。
 善悪不二(体に起こる症状には、すべて科学的根拠がある)と言いながら、
 癌と正常細胞とを区別して、導く癌医療ぞ悪なるぞ。
 ただ天地自然のその中に、喜び迎へ正常細胞もなく、癌もあらざる健康ぞ、
 (正常細胞だけが必要なのではなく、「悪の御用」を担う癌細胞もあってこそ、体の健康が維持できる
 皆、一筋の天地自然の、働きなるぞ、癌はなし(「癌は悪」という発想自体が間違っているのだ )。」


 老子が示す「善・不善のパラドックス(真逆の真理逆理)」を参考にすれば、良かれ()と思っていた治療が、実は根本的に間違っていた(不善)という現実が多々あります。そういう犠牲者となってしまった患者さんが多くいましたね。


 もう一度、最初の日月神示の啓示を見てみましょう。

   まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ、
    悪の大将は光り輝いているのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。
(地つ巻 第十七帖)

 まことの善は悪に似ているため、多くの人がその真実の姿になかなか気づけないでいるのです。
 まことの悪は善に似ているため、多くの人がその不実の姿に流され、真実そうに見えるその姿を鵜呑みにしているのです。
 何事もよく見つめて判断し、しっかりと見抜いていかなければなりません。

 「悪の大将」は「光り輝いている」姿を着飾っていますから、さも本物らしく、本当~っぽく見えることでしょう。
 「悪」であるのがバレないように、必死に「善(本物)を演じて」います。
   さも「本物らしぃ~く」振る舞っているのです。


 世間には「不都合なる真実」が無数に潜在しています。

 甲田光雄医学博士は「99%の嘘を見抜き、狭き真実の門にたどり着くのは至難である」と言われていました。「世間に根を張る99%の嘘を見抜いて、残り1%の狭き真実の門へとたどり着くことが如何に至難であることか・・」と語られたのです。

 この「99%の嘘」というのは、「さも本当そうに御触れを出すが、中身はよくできた捏造」のことです。
 この「世間に根付く多くの捏造」を見抜いて、「真実(本当のこと)」を知ることのできる人は本当に少ないのです。