森美智代先生の著書「食べること、やめました - 1日青汁1杯だけで元気に13年」の中での「オーラが見える」という部分を、なわさんの資料(2012年の黙示禄)からご紹介します。



 食べること、やめました   1日青汁1杯だけで元気に13年
  森美智代(著)
  マキノ出版


断食中に「オーラ」が見え始める

 高校3年生の最後の期末試験が終わると、卒業式までは実質上の休みとなりました。その期間を利用して、私は甲田医院で5日間の本断食を行ないました。とくに気になる病気や症状はありませんでしたが、短大に進学する前にもう一度断食を体験したかったのです。このころはまだ、準備期間や回復食の期間が長く必要でしたから、1ヵ月ちょっとの入院となりました。
 甲田医院の朝は、先生のお話を聞く朝礼から始まります。私にとっては、大好きな甲田先生のお話が聞ける至福のときです。
 ある朝、朝礼でお話ししておられる甲田先生の周りが、妙にまぶしく感じました。「おかしいなあ」と思ったのですが、もともと目が悪いので、何か目の不調で光が見えているのだろうと思いました。
 毎朝、気をつけていると、甲田先生の周りの光は、大きい日と小さい日がありました。そして、ほかの人の周りにも、人によって見え方が違うけれども、光が見えるようになってきました。
 これが、第2章でもお話しした「オーラ」でした。このときの入院で、断食中に甲田先生の周りに光りが見えたのが、私のオーラの見え始めだったのです。
 その後も長いこと、私はこれが「目の不調」のせいだと思っていました。オーラだとわかったのは、発病後、甲田医院に長期入院し、ようやく持ち直して退院したあとです。
 そのころ、私は養護学校に臨時教員として勤めていました。そして、学校で、障害をもつ子どもたちを見ていたら、中にとりわけきれいな光に包まれている子がいたのです。
 自分の目がおかしいのだろうと思いつつも、そのきれいさに感動していると、頭の中に「菩薩行」という言葉が、声なのかインスピレーションなのかわかりませんが、突然に響きました。その声(インスピレーション)は、「この子はこの子の周りの人のために、身をやつして障害をもって生まれてきて、周りの人を成長させているんだよ」と続きました。
 「そうなのか。障害をもっていても、すごいんだなあ」と思いました。
 次に甲田医院に行ったとき、「生徒さんを見ていたら、きれいな光に包まれている子がいる。甲田先生も朝礼のとき光に包まれていて、光が大きくなったり小さくなったりする」と、初めて甲田先生に話しました。
 すると先生は、「ああ、お前、オーラ見えるな」といわれました。
 「えっ、私、オーラ見えているんですか」と、このときようやくわかったのでした。



● 甲田療法や西式健康法でオーラが変わる

 オーラは、ふわーっとしたかげろうのような感じです。多くの場合は、見ようとしなければ、それほど気にならない程度の光が、ひらひらとまとわりつくように、その人の周りに見えます。
 色や光の強さ、大きさ、方向は、その人、そのときによって違います。おもしろいのは、光が後ろから前に出ている人と、前から後ろに出ている人がいることです。いろいろな人を観察した結果では、どうもいばっている人は後ろに、謙虚な人は前に出ているようです。
 「この人のオーラはどこから出ているのかな」と、周りをぐるっと回ってみて、前から後ろに出ているのがわかると、「あ、この人はいばりんぼだ」とわかっておかしくなったりします。
 甲田先生の療法や西式健康法をやっていると、たいていオーラがきれいになってきます。断食をしている人が、ある時期を境に、パーツときれいなオーラになるのも、何度か経験しました。
 心身に余計なものや老廃物が多いと、オーラはきれいになりにくいのかもしれません。甲田療法や西武健康法をやっていると、そうした老廃物がなくなっていくから、オーラがきれいになるのではないでしょうか。


              


 人に限らず植物でもオーラを発していて、この著者のようにそのオーラを見ることができる人もいるのです。人のオーラはその人の心の状態に応じて常に変化していると言われますが、心の持ち方に一定の癖ができてしまいますと、オーラの形や色もその人の個性が出てくるようになるのでしょう。
 断食をすると体の老廃物が出てしまいますので、霊的パワーが高まるものと思われます。「断食中に、朝起きると周りの景色が輝いて見えた」という体験談を別の本でも読んだことがあります。難病の治療などに断食が有効であることは知られていますが、食べるということは、体によくない物質をたくさん取り込んでしまうということになるからです。そういう意味では、この本の著者のように食べるのをやめてしまうことは普通の人には難しいとしても、野菜中心の食事にしてできるだけ少食を心がける必要はあると思っています。
 ちなみに私は完全菜食とまではいきませんが(肉類は一切食べません)、約30年にわたって1日2食(昼食抜き)ですので、食事の量は普通の人よりも少ないと思います。
 (なわ ふみひと)




 以上、森美智代先生の著書「食べること、やめました」の中での「オーラが見える」という部分でした。
 このことについて、なわさんはこのように言われていました。

 人に限らず植物でもオーラを発していて、この著者のようにそのオーラを見ることができる人もいるのです。人のオーラはその人の心の状態に応じて常に変化していると言われますが、心の持ち方に一定の癖ができてしまいますと、オーラの形や色もその人の個性が出てくるようになるのでしょう。
 断食をすると体の老廃物が出てしまいますので、霊的パワーが高まるものと思われます。「断食中に、朝起きると周りの景色が輝いて見えた」という体験談を別の本でも読んだことがあります。難病の治療などに断食が有効であることは知られていますが、食べるということは、体によくない物質をたくさん取り込んでしまうということになるからです。そういう意味では、この本の著者のように食べるのをやめてしまうことは普通の人には難しいとしても、野菜中心の食事にしてできるだけ少食を心がける必要はあると思っています。
 ちなみに 私は、完全菜食とまではいきませんが(肉類は一切食べません)、約30年にわたって1日2食(昼食抜き)ですので、食事の量は普通の人よりも少ないと思います。



 これについて、私もお話していきたいと思います。

 森美智代先生はオーラについて、このように言われていました。

 オーラとは、人によってさまざまに解釈されていますが、一般には「生命エネルギーが具現化したもの」と考えられています。微弱な電磁波エネルギーともいわれ、何層かになっており、その色や輝き方、広がり具合は、発する人や動植物によって千差万別です。



 オーラというものは、その人の(そのときの)「精神状態」が現われたものです。その人の(そのときの)「心の動き」がオーラの色となって現われているといいます。オーラは霊的な磁気であり、色を帯びているのです。そのときの感情がオーラの色となって現われます。「感情」と「色」には関係があることは、色彩学や色彩心理学などでも知られていますし、天然石の色と感情の関係などはよく知られていることですね。オーラも感情が色となって現われるのです。

 たとえば、「感謝」のときに発せられているオーラの色は「黄金色」だといいます。現代に残る「仏像」は、もともとは金箔で覆われていて、仏像全体が黄金色をしていました。なぜだと思いますか・・・? これは、何も昔の人たちが「仏像をリッチに仕上げたかった」というわけではないのです。その時代の覚者たちが神仏に触れて感応したときに、本当に「神仏が黄金色に輝いて観えていた」からだといいます。神仏が、人間を含めた全ての存在に対して「感謝している」という「現われ」が、そのまま「神仏のオーラ」となって黄金色に輝いていたのです。まだ神仏との正しい感応をすることのできていた「昔の覚者たち」が、その「黄金色に輝いている神仏の姿」を仏像の姿として「そのまま」表現していたのです。「神仏の姿を、観たままに表現していた」のが「金箔で覆われた仏像」であったわけです。つまり、もともと仏像が金箔で覆われていたのは「リッチにきめたかった」のではなくて、昔の覚者が感応して観えた「神仏の姿」を、ありのままに表現していただけだった・・・ というのです。
ただ、こんなことはあまり知られていません・・・。霊学の分野になります


 また、森美智代先生はこのようにも言われていました。

 甲田先生の療法や西式健康法をやっていると、たいていオーラがきれいになってきます。断食をしている人が、ある時期を境に、パーツときれいなオーラになるのも、何度か経験しました。心身に余計なものや老廃物が多いと、オーラはきれいになりにくいのかもしれません。甲田療法や西武健康法をやっていると、そうした老廃物がなくなっていくから、オーラがきれいになるのではないでしょうか。



 森美智代先生のこの言葉の意味を知るのには、この話をするのが一番です。
 それは「人間は複数の体を持っている」という話です。その話を交えて進めていきます。


 「日本スピリチュアリズムの父」と言われている「浅野和三郎」は「一霊四魂」説を唱えていました。「一霊四魂」は復古神道の中核理論であり、本田親徳等によって現代的に解釈し直されたものです。「四魂」とは「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」「幸魂(さきみたま)」「奇魂(くしみたま)」をいい、万物の霊を構成しているとされる「魂」のことであり、「一霊」とはこれら「四魂を統括する霊」だといいます。この「一霊四魂」が天から下されて分霊(わけみたま)となって肉体に宿ったときに、初めて「ヒト(=霊止)」が成立するという理論です。
「ヒト」とは「人」のことですが、本来は「霊止」と書きました。霊がこの人間界に生まれ、自分に与えられた期間限定の人生を生きて経験している間、人間界に「止まっている」という意味です。霊は肉体の死をもって、また元来た霊的次元世界(霊界)に「戻っていく」という霊的真相を、そのまま「戻るまでの間、が人間界にまっている」という表現をしたわけです。それが、人間界で生きている「ヒト=霊止=人」という生命存在だとしたのですね

 浅野和三郎は「心霊科学(スピリチュアリズム)の見地から観たときに、日本の四魂説は初めてその真価を発揮する」と述べて、「荒魂=肉体」「和魂=感情 及び 幽体の働き」「幸魂=高等意識 及び 理性」「奇魂=大我」であると説いていました。その結果、スピリチュアリズムの概念と四魂説とを結びつけて、次のように解釈していました。

     荒魂 (あらみたま) = 現界 = 肉体  肉体意識で、欲望
     和魂 (にぎみたま) = 幽界 = 幽体  幽体意識で、感情
     幸魂 (さきみたま) = 霊界 = 霊体  霊体意識で、理念
     奇魂 (くしみたま) = 神界 = 真体  本体意識で、神智


 人間には 4つの体(four bodies)があり、4つの体(肉体・幽体・霊体・真体)がつながっていて、重なり合うように存在しているとしています。

 ただ、これについては、西洋の神智学では7つの体に分類しているなど、様々な解釈があります。
 ひとつだけ言えることは、「人間は肉体の他にも、霊的な体を持っている」という主張は共通しているということです。スピリチュアリズムでは、
肉体と霊体の2つに大別 してい ます。
 現在、アメリカ、イギリス、日本など、このような研究を進め ている医学があります。
 (
参考:外部リンク 1外部リンク 2外部リンク 3

 ここでは、浅野和三郎氏の「4つの体」で話を進めていきます。
 (私は、これが一番分かりやすいので・・・)



 「肉体」以外の「3つの体(霊的な体)」は、(細かく言うと違うのですが)大雑把に言って「心」と捉えてみても良いでしょう。「肉体」と「3つの体(霊的な体)」は往々にして同時相関している(常に関わり合っている)としています。つまり、「肉体」と「心(精神)」は、常に同時相関しているわけです。

 これは、言われてみれば分かることですね。体の状態が心に影響し、心の状態が体にも影響していることくらいは、現代人ならば誰にでも思いつくものです。

 こういう視点からも、目に見える「肉体」の面と、目には見えない「心」の面とが、深く影響し合い関わり合っていることを知って頂いて、何か感じてみてほしいのです。病気を治そうとするときには、肉体面を正すために「食養」を活かし、同時に心の面も活かしていくべきである、ということを知ってほしいと思います。肉体だけを診るのでは足りません。心だけを見つめても、やはりそれだけでは足りません。肉体と心を「表裏一体」のものとして、両面からしっかりと捉えていくべきです。
 「正当医学」と言われている現代医学では、治療に精神論はタブーとされることが非常に多いです。しかしながら、このような上記の視点から見つめるならば、「精神的な視点」も欠いてはならないことであるのが分かると思います。

 治病していくのに「悪想念(悪質な心)」はなりません。甲田光雄先生はこのようなことを良くご存知であられて、この「悪想念」のことを「心の宿便」と表現されていました。とても分かりやすい表現です。甲田先生は「甲田療法を実行しても治らない人たちがいた。病気が治らない人たちは、どうしても心の宿便が取れない人たちだった・・・」と語られています。甲田先生の言われた「心の宿便」とは、「恨み、憎しみ、嫉み(嫉妬)、不平、不満、強欲、金欲、物欲、自己中心的、利己的、悪意・・・」などの悪想念(悪質な心)のことです。これを見ますと、現代の日本人は病気になっていく人が多いのも頷けることかもしれません。

 さらに、甲田先生は「心の宿便が取れた人たちや、感謝の深い人たちは、病気が治っていった」とも話されていました。これは、私にもよく分かります。癌と闘う方々を見ましても、食事療法によって癌から生還されている方々は、不思議と「癌の御蔭で、かえって健康になれた・・・」と、癌にさえ感謝されていました。癌から生還される人たちの中では、癌に感謝している人が多いのです。私は、こういった「心の面」を見逃してはならないと思います。

 上記の「4つの体(「肉体」と「霊的な体」)」は常時つながっていて、同時相関しています。体が心に、心が体に、常に影響を与え合っているわけです。だからこそ、肉体の面では「食養(食事改善・食事療法)」を、心の面では「感謝」を活かしていくのは、非常に有効な手段だと思います。

 食養を継続していくと少しずつ体内は浄化されていき、「4つの体」として「肉体」とつながっている「心・精神」にまで浄化が現われてきます。「肉体の浄化」から「精神(心)の浄化」へと進んでいくのです。特に甲田療法では、それが顕著に現われてきます。それもそのはずで、あの甲田療法のメニュー(玄米クリーム、生玄米粉、生菜食、青汁、赤汁、断食・・・)を真面目に厳格にやっていれば、「浄化するな!」というほうが無理な話です。食養によって体内が浄化を受けると、体は癒され治病につながり、そのまま進んで「精神(心)の浄化」にまで成っていくのです。

 考えてみれば、世間でも「子供の心の成長には食事が大切です」として、「食育」が大切だと叫ばれているわけですよね! それには、ちゃんと理由があったわけです。当然、医学的・栄養学的な理由もありますが、上記のような霊的医学としての理由も挙げられるのですね。ゆえに食養とは、体と心を清浄にするための「浄化手段」なのです。

 ですから、森美智代先生が言われた甲田先生の療法や西式健康法をやっていると、たいていオーラがきれいになってきますというのは、「甲田療法」や「断食」をやっていくと肉体が浄化を受けて、さらに4つの体を通して肉体とつながっている「心・精神」までが浄化されていくので、その現われとして「オーラがきれいになっていく」のですね。
あくまで、私の解釈ですけれど・・・

 森美智代先生は『オーラとは、人によってさまざまに解釈されていますが、一般には「生命エネルギーが具現化したもの」と考えられています。微弱な電磁波エネルギーともいわれ、何層かになっており、その色や輝き方、広がり具合は、発する人や動植物によって千差万別です』と言われていました。
 その人の「感情」や「心」から発せられたオーラは、色を帯びている「霊的な磁気(電磁波エネルギー)」でもあります。この「霊的磁気」は一度発せられると、その場に「残る(残存する)」という特徴(性質)があります。「良い霊的磁気(善想念)」は自分にも周りにも良い影響を与え、「悪い霊的磁気(悪想念)」は自分にも周りにも悪い影響を与えます。

 たとえば、自分のそばにイライラしている人がいたりすると、何だかこっちまでイライラ・・・ そわそわ・・・ してきたり、逆に明るくさわやかな人がいると、こっちまでが自然と明るくなってきてしまう、というような経験をされたこともあるでしょう。公衆の椅子(ベンチ)などに座ったときに、何だか急に違和感を覚えたりしたことのある人は、前に座っていた人の「椅子に残存している霊的磁気」を感じ取っているのかもしれません。

 さらに、「子は親に似る」と言いますが、どのお宅でも「親が日々、発し続けている霊的磁気」が残存して蓄積し、家の中の空間を満たしているものですから、子供は「親の発している霊的磁気(親の心の在り方・心の動き)」に深く影響を受けています。家の中の空間をいつも不平不満の心(悪想念の霊的磁気)で満たしていれば、子供にはそれなりの悪影響があります。逆に、家の中の空間がいつも感謝の心(善想念の霊的磁気)で満たされていれば、子供にも相応に良い影響があるものです。

 家の中でいつも「他人の悪口・陰口」を言っていると、その「悪い霊的磁気(悪想念)」がその場に残り蓄積していますから、子供にも悪い影響が出てくるでしょう。それはすぐには気づけませんが、時間が経過して、その悪い霊的磁気(悪想念)の蓄積が重なっていけば、気づいたときには「子供の大きな問題」として現われてしまう家庭も多いはずです。目には見えなくても、家の中の空間には「親の霊的磁気( 親の「心の姿」)」が日々どれほど蓄積し、存在し続けているかしれないのです。子供の心は、親の心(親の霊的磁気)からダイレクトにそのまま影響を受けています(親の心の質が、そのまま子供の心に乗り移って行きます )。子供に何らかの問題が現われても、子供のことを責める前に、まずはこのような霊的視点から、一度、親としての「自分の心の中身(心の本性)」を再確認してみることも大事なことだと思います。このような仕組みで、どれほど「親の日常の心の在り方・心の姿(親の霊的磁気)」が我が子に影響を与えてしまっているのかを知るべきです。

 子供に何らかの問題が現われたときに、真っ先に子供を変えようとすることは心得違いです。真っ先に成すべきことは、親の心の在り方を変えていくことなのです。順番を間違えてはいけません。子供は親に染められているものなのですから、染めた側(親)が変わらねば、染められた側(子供)は変わろうはずがないのです。

 世間でも「子供の姿は親の鏡である」と言われていますが、霊的に見れば、これは本当のことなのです。「想いは届く・・・」とか「心は伝染する」とか聞くこともありますが、こういった「心の霊的磁気の性質」の視点から見れば、「親の心の態度」が「自分の子供の心」に、そのまま「伝染している」と見るべきなのですね。

 子供の心の教育とは、深く見つめれば、大人社会の「巨大な心(社会に暮らす大人ひとりひとりの心の動きが合流して、社会や地域を覆うようにして現われている「巨大な霊的磁気の集合体」)」が大きく影響しているのです。こうした大人社会の「巨大な心」である「想念の巨大な集合体」が、無意識のうちに、子供社会を大人社会と同じ色に、確実に染め上げて行くのです。



 昨今は、また「子供のいじめ」が問題になってきています。大人たちも色々な意見を交わしあっています。TVでも、子供の教育を徹底し、子供をいじめから守るにはどうすれば良いのかを真剣に論じています。
 しかし私から見れば、まだまともな意見を一度も聞いたことがありません。みなさん、子供だけに意識が向き過ぎているようです。また「学校が悪い」「教師が悪い」など教育機関の責任にばかりしている向きもあり、さらに「親が悪い」と部分的なところしか見ていません。確かにそれらも要因として挙げるべきなのでしょうけれど、もっとその背後にある「全体性」を見つめる視点を持ち得なければ、真の原因は見えてこないはずです。現代の大人たちは、自分たち「大人の姿」の有無に、真剣に帰着できていない方がとても多い気がします。

 なぜ、子供社会に「いじめ」がなくならないのでしょうか? 子供への教育が足りないからでしょうか?
 教育機関の問題、親御の問題、当事者の問題など、部分的なところに原因があるのでしょうか?
 それもあるかもしれませんが、あくまでそれらは「表層の現われ」に過ぎないのです。本当の答えはもっとその奥にあります。子供社会に「いじめ」が発生してしまう真の原因は、子供以外のところ、大人社会の奥の奥に潜んでいるのです。

 実は、この答えは簡単に得られるのです。率直に答えを言えば、「大人社会にいじめがなくならないから」です。上記でお話ししましたことと素直に重ねられる方には、ピンッとくることでしょう。そうです。今もって、大人社会に「いじめ」がなくならず、その「大人社会の心の態度」が、そのまま「子供社会の心の態度」として、本当にそのまま現われているだけの現象、それが「子供社会のいじめ」なのです。大人社会の陰湿な「いじめ」のあることは、私もよく耳にします(2013年はパワハラの相談件数が5万件を超えたと NHK のニュースでやっていました)。これに苦しんでいる大人の方々も、(全国規模で)大勢おられることでしょう。こういう大人社会の実情は、みなさんだって、よくよく御存じのはずです。当人に直接何もしていなくとも、陰で「悪口・陰口」を叩けば、霊的には立派に「いじめの成立」となっているのです。

 ま・・ まさかですよ・・・、「大人社会のいじめ」は社会的に黙認し、「子供社会のいじめ」は許可が下りないなんてこと・・ ないですよね・・・。もし「大人社会のいじめ」を認めるならば、「子供社会のいじめ」も認めなければなりません。こういうことは、年齢の差で決まることではないのです。「大人社会のいじめ」は放任して、「子供社会のいじめ」だけは認めない・・・、こんな馬鹿げた(あまりにも幼い)発想はありません。この「大人社会のいじめ」を一切無視してですね、「子供社会のいじめ」だけを何とかなくそうとしたところが、「そりゃぁ~ 無理な話ですよ!」って言いたいです。

 だってですよ、子供社会に現われる「いじめ」の原因元は、大人社会に現われ続けている「いじめ」なのですから(ここまで真剣に読んでくださった方には、これが分かるはずです)。「元」を正さなければ、「末」は何も変わりません。あくまで、大人社会のいじめが「元」であり、子供社会のいじめは「その末の現象」です。大人社会に現われる現象が「根っ子」であり、子供社会に現われる現象は「枝葉」です。これは、親・先祖が「根っ子」であり、子供・孫・子孫が「枝葉や実」であるのと同じ姿です。親の姿(中身)がそのまま子供に乗り移って行くように、大人社会の姿(中身)がそのまま子供社会に乗り移って行き、子供社会は見事なまでに「大人社会の転写」を受けてしまうのです。大樹の「根」の状態が「枝葉や実」の状態を決するのと同じ仕組みが、人体にも、人間社会にも在るのです。
 子供社会とは、まさに大人社会の「生き鏡」です。大人社会に「いじめ」が発生しているのであれば、その「大人社会にある、いじめの栄養分(霊的磁気)」を、枝葉に当たる子供社会がしっかりと吸収してしまい、大人社会の「いじめの姿」が子供社会にそのまま乗り移って現われている・・・、これが「子供社会にいじめが発生してしまう真の原因」です。こうして、大人社会の「巨大な心(想念の巨大な集合体)」が、無意識のうちに、子供社会を「大人社会と同じ色」へと、確実に染め上げて行くのです。大人社会の心の質が、子供社会の心の質を決する材料になります。大樹の根の質が、枝葉や実の質を決するが如くにです。
 つまり、子供社会に現われている現象を見れば、その国や地域の奥に見え隠れしている「大人社会の実情」を知ることができます。大人は自分の本心を上っ面で隠して誤魔化せますが、子供は(特に幼児には)それがなかなかできません。子供は自分の本心をダイレクトに発露します(自分の気持ちを上手く表現できずに、モジモジしたり、グジュグジュ言ったりすることも、そのままの気持ちを発露している姿です)。子供の姿は、大人社会の「鏡」として、大人社会の「本当の姿」を映し出してしまうのです。

 「元(大人社会:
)」と「末(子供社会:枝葉や実)」の関係をしっかりと認識しましょう。この世には「原因と結果」という揺るぎない仕組みのあることを忘れてはいけません。「元()」を正さなければ、「末(枝葉や実)」は正されようはずがありません。それが「天地自然のシステム(仕組み)」であり、誰も逃れることのできない真理なのです。この日本社会から「子供のいじめ(末)」をなくしたいのであるならば、まずは「大人のいじめ(元)」からなくしていきましょう! 順序を履き違えてはいけません!

 実は、これは食養と似ていて、不健全な「元(美食・過食・飽食)」を断って改善していかなければ、いつまで経っても、不健全な「末(体の病気)」は全く変わらないということと同じなんですよ。真理は同じく、共通しているのです。


 「子供のいじめ」に関しては、私はこういう視点のあることを常々感じていましたなので、大人のみなさんにも何か感じて頂けたらと思い、生意気にもお話させて頂きました。



 また、この「霊的磁気」は言葉を発すれば「言霊」となって、さらに大きく影響しますが、だからと言って、言わなければ良いというものではありません。今までの人間社会では、不平不満を口に出さなければ「大人らしい」とされてもいたのでしょうけれど、「霊的磁気」は心の中で思っただけで発生しているものですから、誤魔化しが効きません。

 人間の心は「霊的な磁気発生器」でもあります。森美智代先生が経験してこられた「オーラ」のお話は、私には実地的に富んだ話に聞こえます。このような経験談を公開してくださったことに感謝しています。とても貴重な話ですからね。


 この「心の動きから発せられた霊的磁気」は、良い心(善想念)ならば良い影響を与えますし、悪い心(悪想念)ならば悪い影響を与えます。ここで、この話を思い出してください。

 治病していくのに「悪想念(悪質な心)」はなりません。甲田光雄先生はこのようなことを良くご存知であられて、この「悪想念」のことを「心の宿便」と表現されていました。とても分かりやすい表現です。甲田先生は「甲田療法を実行しても治らない人たちがいた。病気が治らない人たちは、どうしても心の宿便が取れない人たちだった・・・」と語られています。

 甲田先生の言われた「心の宿便」とは、「恨み、憎しみ、嫉み(嫉妬)、不平、不満、強欲、金欲、物欲、自己中心的、利己的、悪意・・・」などの悪想念(悪質な心)のことです。これを見ますと、現代の日本人は病気になっていく人が多いのも頷けることかもしれません。

 さらに、甲田先生は「心の宿便が取れた人たちや、感謝が深い人たちは、病気が治っていった」とも話されていました。これは、私にもよく分かります。癌と闘う方々を見ましても、食事療法によって癌から生還されている方々は、不思議と「癌の御蔭で、かえって健康になれた・・・」と、癌にさえ感謝されていました。癌から生還される人たちの中では、癌に感謝している人が多いのです。

 私は、こういった「心の面」を見逃してはならないと思います。



 この内容が、ここの部分に重なりませんか?

 その人の「感情」や「心」から発せられたオーラは、色を帯びている「霊的な磁気(電磁波エネルギー)」でもあります。この「霊的磁気」は一度発せられると、その場に「残る(残存する)」という特徴(性質)があります。「良い霊的磁気(善想念)」は自分にも周りにも良い影響を与え、「悪い霊的磁気(悪想念)」は自分にも周りにも悪い影響を与えます。



     自分の心から「良い心(善想念)」が発せられたなら、良い霊的磁気が自分の体に残存して、
      自分の体に良い影響を与える。

    自分の心から「悪い心(悪想念)」が発せられたなら、悪い霊的磁気が自分の体に残存して、
      自分の体に悪い影響を及ぼす。


 自分の心から発せられた「霊的磁気」は、まずは自分の体に強く大きく影響してきます。周りだけではありません。真っ先に自分が影響を受けているのです。実際に、医学的にも「感謝が深い人は癌が治りやすい」「不満の多い人は癌になりやすい」という報告があるといいます。それは、このような視点から見つめてみれば、充分に納得のできることではないでしょうか?

 これをおとぎ話だと思いますか?
 私には、自然と存在している「仕組み」であるように感じます。


 私は最初のほうで、「感謝のときに発せられているオーラの色は黄金色をしている」という、このような話をしました。

 「感謝」のときに発せられているオーラの色は「黄金色」だといいます。現代に残る「仏像」は、もともとは金箔で覆われていて、仏像全体が黄金色をしていました。なぜだと思いますか・・・? これは、何も昔の人たちが「仏像をリッチに仕上げたかった」というわけではないのです。その時代の覚者たちが神仏に触れて感応したときに、本当に「神仏が黄金色に輝いて観えていた」からだといいます。神仏が、人間を含めた全ての存在に対して「感謝している」という「現われ」が、そのまま「神仏のオーラ」となって黄金色に輝いていたのです。まだ神仏との正しい感応をすることのできていた「昔の覚者たち」が、その「黄金色に輝いている神仏の姿」を仏像の姿として「そのまま」表現していたのです。「神仏の姿を、観たままに表現していた」のが「金箔で覆われた仏像」であったわけです。つまり、もともと仏像が金箔で覆われていたのは「リッチにきめたかった」のではなくて、昔の覚者が感応して観えた「神仏の姿」を、ありのままに表現していただけだった・・・ というのです。



 霊学において、人の「心の動き」は、オーラの他にも「波動」「波長」「振動数」「周波数」などと表現されています。心の動きによってオーラが瞬時に変わるように、心の「波動」「波長」「振動数」「周波数」も瞬時に変わります。

 心が「周波数」と表現されていますのは、心にはラジオと同じような「同じ周波数同士が同調して引き寄せ合う」という性質があるからです。現在では「引き寄せの法則」として知られていますね。「同じ周波数の者同士でしか同調できない」のです。
 世間でも「あの人とは波長が合わない・・・」なんていうセリフもありますからね。こういう仕組みを感じて、自然と出てきた言葉なのかもしれませんね。

 よく「類友の法則(類は友を呼ぶ)」「類同の法則(同類引き寄せ)」と言われているように、「同じ存在(同類)が親和力によって引き寄せ合う」のですが、分子もこの親和力によって、お互いが必要として引き寄せ合い、必要として結合していますね。この「同類引き寄せ」というものは、自然界でも多数存在しているものです。

 ですから、「同じ心の性質」の者同士が同調してくっつく(引き寄せ合う)ように、目には見えないものも、自分の心の性質に合った存在が同調してくるものなのです。

 ここで、「感謝心のオーラは黄金の色であり、神仏と同じ色である」という話に戻ります。

 「感謝心は、神仏と同じオーラの色である」というのはどういうことかと言いますと、自分の「感謝心」が素直に動いているときには、ただそれだけで、人間はいつでもどこでも「神仏と重なり合う」ことができている、つまり「神仏と同調している」「神仏と調和している」ということなのです。神仏と調和するのには特別なことなど何も必要とせず、ただそこに本当の「感謝」があれば良いだけだといいます。自分の心と「同じ性質の存在」が同調してくるからです。

 神仏の存在を科学で立証することなどできません。しかし人類は太古の昔から、世界中で神々への信仰を続けてきました。それは現代に入ってもです。日本を飛び出して外国に行けば、「神を信じていない」なんて言うと、まず「キチガイ」扱いをされるといいます。これは一体、何を意味しているのでしょうか?

 人類が「今や、科学の力があれば何でもできる」として、科学という力を乱用し始めていた頃、世界中の科学者が「神の実在」を「科学の力」で立証しようとしていましたが、とうとう科学者たちは「神の実在」を科学で立証することができませんでした。そのとたん「神はいなかった」として、神を否定する科学者が出てきました。そのときに、その動きを真っ向から怒った科学者がいました。アルベルト・アインシュアタイン博士です。
 アインシュタイン博士は「人間が科学で神の実在を立証することができないのは、神が実在していないからではなくて、科学の力が まだまだ及ばないゆえ、科学が神の実在を立証できないだけの話だ!」と言ったのです。

 現代でも、科学でそれを立証できなければ、それは「存在していない」ことにされてしまうようですね。
現代医学なんか、これが実に多いですからね。「少食」や「断食」なんて世界中で認められている医療なんですけれど、日本の正当医学では、まだほとんど相手にされていませんからね。残念です・・・

 これはよくあることです。1973年に、益川敏英博士は「小林・益川理論」を発表しました。その当時、量子物理学ではクォーク(素粒子)は3種類(アップ・ダウン・ストレンジ)しか発見されておらず、「クォークは3種類」とされていましたが、益川博士が「理論上、クォークは6種類はあるはずである」という「小林・益川理論」の発表を機に、世界中の科学者が必死で残りのクォークを探しました。そして1995年までに残りの3種類のクォーク(チャーム・ボトム・トップ)が発見されて(確認されて)、益川博士たちは2008年にノーベル物理学賞を授与されました。

 クォーク(素粒子)だって、その当時の科学の力で3種類しか発見できないと「クォークは3種類」としか認められないのですね。しかし、発見されていてもいなくても、クォークはもともと6種類あったのです。
もっともっと小さな素粒子はあるはず・・・ という人もいますね

 その時代の「科学の力」で立証できなければ「それはない(存在していない)」という扱いしかできないのが、「科学の体質・宿命」なのかもしれません・・・。このことをアインシュタイン博士はよく理解されていて、上記の言葉を言われたのでしょう。


 実際に神仏の実在については誰も立証はできないかもしれませんが、人類が世界中で太古の大昔から継続してきた「神仏への信仰」は、そう間違ったことではないのではないでしょうか?

 ましてや「感謝」さえあれば、誰でもその場で「神仏のオーラ(磁気)」と同調して、神仏とつながり合えるというのは、考えようによっては素敵なことではありませんか?
 国境もいらない・・・、国の違いも民族習慣の違いも関係ない・・・、先進国の国民であろうが、発展途上国の国民であろうが、未開の民族であろうが・・・、金持ちであろうが、貧困であろうが・・・、一切関係ない・・・。特別な宗教もいらず、特別な宗教の教義すらいらない・・・、宗教の違いもまったく関係ない・・・。学があろうがなかろうが関係ない・・・。

 ただ「感謝」という「神仏と同じ、黄金色のオーラ(磁気)」がその人の心から発せられてさえいれば、誰でも神仏と重なり合える(同調できる・調和できる)、これが日本では昔から当たり前に言われてきた「かんながら(神ながら・神と共に)」精神なのでしょうね。
 「かんながら」になるのには、何も「特別にお金がかかる」なんてことはありません。「感謝」を入り口にするだけです。これこそ、本当の平等であり、真の平等だと思います。私には、ここに本当の「神仏観」があるように思うのです。

「平和」という言葉があります。昔は平和のことを「太平の世」と言っていました。
「平等」「平和」「太平」という言葉には、「平(たいら)」という字が当てられています。
 なぜ、「平(たいら)」という字が当てられているのでしょうか?
 この「平(たいら)」という字は、何を意味しているのでしょうか?

 これは、人間が本当の「平等」「平和」「太平」の社会を実現した暁には、その社会では人間ひとりひとりの価値が「横並びになる」という意味があるのです。「真に平等・平和が実現された人間社会では、人間ひとりひとりの価値が横並びになる」という真理が「平(たいら)」という一字に含まれているのですね。
 本当の「平等なる社会」とは何かといいますと、「人間の価値は横並びとなり、誰もが尊く、異なるのは『立場と役割』だけである」という社会です。男尊女



 ちなみに、「神祀り(かみまつり)」とは何か知っていますか?
 自宅で「神祀り」をされている方もおられるでしょうから、この話だけしちゃいましょう。

 現代でも、自宅で「神祀り」をされているお宅は多いと思います。自宅での「神祀り」をされている理由については、おそらく多くの方々が「我が家を守ってほしい・・・」という気持ちでお祀りしているのだと思います。つまり、神仏を「我が家を守る番人」として扱っているわけです。その他、祈願と称して、神仏に色々なことをお願いしている人がとても多いようですが、これではまるで、神仏の「小間使い(便利屋さん)」ですね。神仏にお願いをすれば「守っちゃってくれる」「叶えちゃってくれる」ということです。神仏とは「お願いをすれば、叶えちゃってくれる」という「便利な存在」になってしまっているかのようです・・・。しかし、これは正しい「神仏観(神仏の概念)」なのでしょうか?

 それを知るためには、「神祀り」という字を見ればよく分かります。「祀り」とは「まつり」です。「まつる」ということですね。「まつる」とは、昔は「祀る」という字以外には「真釣る」と書きました。真(ま)釣る(つる)です。「真釣る」とは「真に釣り合う(真に調和する)」という意味です。つまり、「神祀り」とは「神を祀る」であり、「神を祀る」とは「神を真釣る」であり、「神を真釣る」とは「神と真に釣り合う」ということなのです。「神祀り」という字には、「神と真に釣り合う」「神と真に調和する」という意味がもともとにはあるのです。

 ですから、自宅の「神祀り」とは「神と自分とを真に釣り合わせましょう」という場所なのですね。
 「神祀り」とは、人間が「神仏と真に調和するための環境」なのです。

 正しい「神祀り」とは、人間が神仏に対して「我が家を守ってくれ」「願いを叶えてくれ」というような「都合のよい指示を出す場所」なのではありません。人間は神仏に対して、あれこれと自分に都合のよい指示を出す指揮官ではないのです。これでは、神仏に対して「いいかい、あれをやっておきなさい、これを叶えておきなさい」と指示を出していることと、霊的には何の変りもないのです。
 自宅における「神祀り」とは「神仏にお願いをする現場(お願い現場・お頼み現場)」ではなくして、「神仏と自分とが、真に調和するための環境」であるのです。

 また「神祀り」の 「 マ ・ ツ ・ リ 」の 「マ」ですが、この「マ」は言霊学では「待つ」の意味があるそうです。これはどういうことかと言いますと、「待つ」というのは「誰かが来るのを、誰かが待ち続けている状態」ですね。上記のことと併せて言いますと、「神祀り」とは「神仏が、人間のほうから意識を向けて同調して来てくれるのを待っている環境」とも言えるそうです。「神仏のほうが待ってくれている」のですね。

 もう一度言いますが、「お願いしてくれるのを待っている」というわけではありません。「神仏を含めた周りのすべての物事に対する感謝心で、神仏と同調して来てくれるのを待っている」のです。

 日本に古来から続いてきた日本神道における「かんながら」の精神とは、「神ながら」「神と共に」であり、「神仏との調和」「神仏との同調」を意味しています。そのために必要なのは「感謝」です。ですから、伊勢神宮では現在でも、参拝者に対して「お願いはしてはいけません。神様には感謝だけを捧げましょう」と指導されているのですね。これが正しい「神仏観」なのです。


 こういうことは、現代のお年寄りでも知らなくなってしまいました。
 こういう大事なことを知っているお年寄りが、もう少ないですね。残念です・・・。

 このようなことを色々とお話ししてきましたのは、現在では、甲田光雄先生や森美智代先生もそうですし、大学教授や著名な方々の中でも、このような「霊学的な視点」を持ち始めた方々がたくさん増えてきてくれたので、こういうことを理解できる方々が世間でも少なからずおられるだろうと思い、私なりにお話してみました。


 この記事は森美智代先生の著書「食べること、やめました」の「オーラ」の話をもとに進めてきましたが、結局、何を言いたいのかといいますと、一度、このような色々な視点から体と心を見つめられてみて、改めて「食養」と「感謝心」という2つの「人間の根本性」を見つめ直してみてほしい、ということなのです。こういうことは大切なことながら、一般的には避けられやすいことであり、世間の医師や管理栄養士では絶対に触れてくれない内容ですから、生意気にも私のような市井の若僧が話すことになってしまいました。

 「まったく馬鹿馬鹿しい・・・」と思われたならば、それで良いのです。
 「なるほどォ~」と納得のいくところがありましたなら、ぜひ日常の中に活かして頂きたいと思います。

 世間の多くの大人のみなさんが、上記のような視点から人間という存在を理解し、見出せるようになって、すでに自分の中にある(授与されている)「価値ある手段」を大きく活かされていってほしいと、私は願うばかりです。何も難しいことなどひとつもありません。どこかで聞いたことのあることばかりです。

 子供の頃から振り返ってみれば、「食物には気をつけなさい!」「何事にも感謝をしなさい!」くらいのことは、誰でも言われたことがありますよね。昔の人の言う通りです。本当にその通りでした!

 今の大人のみなさんのおじいちゃん、おばあちゃん世代の人たち(明治・大正・昭和初期の生まれの世代)にとって、「食事に気をつけること」「神仏を大事にすること」「何事にも感謝をすること」は何も特別なことではなく、日常で当たり前に言われていたこと(教育されていたこと)、ごく普通のことであったはずです。

 昔の日本にあった「当たり前のこと」「大事なこと」を、日本人として取り戻していきたいですね。
 昔の日本に当たり前にあった「大事なこと」を、もう一度、再認識していきましょう。