宇宙の誕生

 現代の宇宙年表では、宇宙が誕生したのは観測によって137億年前と推測されています。最新の観測が明らかにした宇宙の姿は、宇宙を構成する成分の7割以上が宇宙膨張を加速させる謎のエネルギー「ダークエネルギー」、2割以上が正体不明の物質「ダークマター」であり、普通の「元素私たちの周りのすべてのものを作っている基本的な成分のことを元素と言います。私たちをはじめ、動植物から夜空に輝く星々までのすべては、元素の組み合わせだけからできています」は4%程度である、というものでした。

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 この宇宙には、星が数百億、数千億集まっている銀河や、銀河が数百個、数千個も集まっている銀河団、さらに何億光年にもまたがった銀河の網の目状の構造「大規模構造」など、多様な階層構造が存在していることも分かってきています。銀河はなぜ、網の目状に分布しているのでしょうか? その原因となったのがダークマターです。重力は働くものの、光で観測することのできない、いまだ正体不明の物質です。かつてこの宇宙では、ダークマターが周りよりわずかに多い部分に、重力によっていっそう多くのダークマターが集まり、立体的な網の目のような「大規模構造」が作られていったと考えられています。ダークマターの多い部分には普通の物質もより多く集まるので、この大規模構造をなぞるようにして、やがて銀河が誕生したと言われています。

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 約130億年前には、銀河はすでに宇宙に存在したことが観測から分かっています。しかし最初の星がいつ頃生まれたのかについては、正確なことは分かっていません。宇宙で最初の星たちは、太陽の数百倍程度の重さを持っていました。その巨大な星々は、内部で さまざまな元素を作り出した後、超新星爆発を起こして宇宙に消えていきました。こうしてまき散らされた元素が、次の世代の星の種となったと言います。

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 宇宙誕生から約38万年後、「宇宙の晴れ上がり」が起こります。それまでの宇宙は、高温のため大量の「電子この世界の物質をバラバラにしていったときに、これ以上分けられない最小のものが「素粒子」。電子はこの素粒子のひとつです」が飛び交っていました。光はこの電子と衝突してしまって直進できず、そのため宇宙は雲の中のように不透明でした。しかし宇宙の温度が約3000度まで下がると、電子は原子核と結合して「原子」となり、光をじゃましなくなりました。こうして、宇宙は見通しが良くなったのです。原子のなかでも同じ性質を持つもの同士を元素と言いますが、この元素が最初の星たちの材料となっています。

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  宇宙誕生直後の約3分間で、私たちの周りにあるすべての物質のもとが生み出されました。超高温の宇宙は、この間に急激な膨張を起こしながら冷えていきました。その中で、物質のもとである素粒子のうち「クォーク」と呼ばれるものが集まり、陽子や中性子となりました。さらにはその陽子や中性子が集まって、元素の中でももっとも軽い、水素やヘリウムの「原子核」がつぎつぎと生み出されたのです。このとき生まれた原子核は、総数の92%が水素、残り8%がヘリウムでした。

 宇宙は誕生直後、とてつもない大量のエネルギーによって加熱され、超高温・超高密度の火の玉となりました。ビッグバンの始まりです。その中で、光(光子)を含む、大量の素粒子が生まれます。素粒子には二つの種類がありました。ひとつが「粒子」で、もうひとつが粒子と反応すると光を出して消滅してしまう「反粒子」です。何らかの理由で、粒子よりも反粒子の方が10億個に1個ほど少なかったために、宇宙のごく初期に反粒子はすべて消滅し、わずかに残った粒子が現在の宇宙の物質のもととなったのです。

 ビッグバンのすさまじい高温は、その直前まで宇宙に満ちていたエネルギーが熱に変化したものでした。宇宙は誕生直後からビッグバン直前までの10の34乗分の1秒の間に、「インフレーション」と呼ばれる、数十桁も大きくなるような猛烈な加速膨張を起こしたのです。現在の宇宙膨張を加速させているダークエネルギーと同じ、しかしその100桁以上もの驚異的な大きさをもった「真空のエネルギー」が、生まれたばかりの宇宙空間を倍々に膨張させていったのではないかと考えられています。そしてこのインフレーションとともに、この宇宙には時間が流れ、空間が広がり始めたのです。

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  宇宙の始まりについて、ある説では「宇宙は無から生まれた」としています。「無」とは、物質も空間も、時間さえもない状態です。しかしそこでは、ごく小さな宇宙が生まれては消えており、そのひとつが何らかの原因で消えずに成長したのが、私たちの宇宙だと言うのです。

 また生まれたての宇宙では、時間や空間の次元の数も今とは違っていた可能性があります。ある説によれば、宇宙は最初は11次元で、やがて余分な次元が小さくなり、空間の3次元と時間の1次元だけが残ったのだといいます。宇宙の始まりは、まだまだ多くの謎に包まれています。



 食は「宇宙の現象面」の一つ

 上記が簡単に宇宙の誕生を解説したものです。
 当ブログサイトは食養の内容なのに、なぜ宇宙の話を持ち出すのだと思いますか? それを少しお話ししてみます。

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 地球は太陽系の一員であり、その太陽系は銀河に内包されていて、その銀河は銀河団の一部であり、その銀河団でさえ超銀河団の一部なのです。つまり、広大無辺の大宇宙の中に内包されている超銀河団、その超銀河団の中に内包されている銀河団、その銀河団に内包されている銀河、その銀河に内包されている太陽系、その太陽系の一員として内包されている我々の地球、その地球に内包されて生かされているのが地球上に暮らしている人間なのです。我々人類は多くの巨大な存在に内包されていて、ようやく生きることができるのです。

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 地球は明らかに、この広大無辺の大宇宙の中に内包されて存在しています。地球はこの大宇宙に内包されていて存在できるわけですから、地球上で起こる現象のすべての仕組みは宇宙の仕組みを元としているはずです。つまりは、地球上で起こる現象のすべてが宇宙の仕組みを大元としているのです。

 地球上では約38億年前に生命体が誕生したとされています。太古の昔から、私たち生き物は 「食べる」という行為(現象)によって命をつなぎ、代をつないで生きてきました。それは今でも変わりません。生き物が生きるためには、「他の生き物を食べる」という食行為がどうしても必要だったようです。地球上で発生したこの「食行為」は、おそらくは、すでに宇宙に仕組まれている現象面の一つでしょう。私は、生き物の食行為は「地球上の生命現象に発生した、宇宙が生成化育していくのにどうしても必要なものとして現わされている現象の一つ(一部)である」と考えています。ですから、人間の「食」だって、れっきとした「宇宙に存在する生成化育現象の一つ(一部)」なのです。



 ルドルフ・シュタイナーの医学観念

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 ルドルフ・シュタイナーは 1923年11月30日の講義にて、医学に関して次のように語っています。

  「宇宙の観点から見ると、医学はひとつの宇宙詩です。
   病的なもの、人を病気にするものは、他の場合には最高のもの、この上なく美しいものでもあるのです。
   このことの中に、宇宙の多くの秘密が潜んでいます。」

 この言葉は、私にとって実に面白いものです。シュタイナーは人間が病気になる現象を「この上もなく美しいもの」と表現しています。「病気は最高!」と言っちゃってます。はっきり言って、重篤な患者さんにはお叱りを受けてしまうような言葉ですが、これは一体どういうことなのでしょうか? 

 そもそも、病気とは何でしょう? 病気とは人間がなってしまうものですね。自然界の動物たちは病気にはなりません。この点について、石塚左玄先生、二木謙三先生、肥田春充先生、西勝造先生 方々は「自然界の動物は人間のように食物を調理していじくることをせず、生のまま食物全体をまんべんなく食べるから、体内に病理を起こさないのだ」ということに気づかれました(食養学における「一物全体食」「生食」の概念)。私はこの視点から、「人間は食物を調理などして食べるから、長年かけて体内に余計な病理が生まれてしまうのだ・・・。自然界の動物たちは人間のやっている調理という余計なことはしない・・・、だから余計な病理が体内に生まれることなく、病まないで済むのだ。この点においては、人間は自然界の動物に劣るようになってしまったのではないか・・・」と思うようになりました。それは、私が「生菜食」をやるようになってからは、はっきりと感じられるようになりました。私の父母が甲田療法を実地するようになってからの経過をずっと見てきても感じ取れることでした。

 しかし、これは私の早計(はやまった考え軽はずみな判断)でした。自然界の動物は人間のように食物を調理して食べないので、体内に余計な病理を引き起こさないで済むのでしょう。でも、これは視点を変えて見れば、自然界の動物は人間のような調理などできないので、逆に人間のように病むことができないのです。

 太古の昔、人類の祖先は食物を調理すると食べやすくなることが分かり、調理をしてから食べるようになりました。調理をするようになったお蔭で人間の体内には病理が生まれるようになり、必要に迫られて人類に太古の医学(西洋医学中医学)が発生します。人間の学問の中でも特に古いものが、数学、天文学、医学です。化学などは医学から枝分かれしたものです。ここに、「なぜ人類は他の動物とは違って、短期間(たった数千年間)のうちに、ここまで急速に進歩を遂げられたのか・・・?」という答えがあるとは思いませんか? 物事が進歩するには 必ず「相反する存在」が必要です。善が進歩するには 必ず悪の存在による手助け(善が進歩するための肥やし)が必要です。善性は悪性があればこそ進歩します。健康の真理も同じく、病気(病理の仕組み)があってこそ進歩します。何事も「相反する存在」がないと進歩が止まってしまうのです。

 自然界の動物は病理を起こさないからこそ、進歩しないのかもしれません。自然界の動物はほとんど進歩していません。太古と同じ暮らしを、今もずっと継続しています。人間は病理を起こすことによって、他の動物にはない「急速な進歩・発展」を遂げることができたのかもしれません。人間が病気を起こさなければ、まず医学は発生しなかったでしょう。病気が存在しなければ、医学なんて必要ないですからね・・・。もし人間が病気を起こさなかったならば、医学という学問は発生していなかったはずです。そして太古に発生していた医学自体がなかったならば、現代のような人間の高度な学問さえ誕生していなかったかもしれません・・・。現代科学の親は太古に発生した数学、天文学、そして医学だからです。医学自体が発生しなければ、果たして現代科学が発生していたのかは疑問に思います。つまり、病気を引き起こさない自然界の動物は進歩できず、病気を引き起こすことのできた人間はたったの数千年間で急速な進歩を遂げることができた、私はそう考えるようになりました。ゆえに、私は「早計であった・・・」と反省したのです。

 病理を引き起こす仕組みには「宇宙の仕組み」があると思います。人間が医学をもって病気を研究することにより、人体の仕組みを解明できます。人体の仕組みを解明していくと、まるで宇宙の仕組みにそっくりなところがあるそうです。私は「人体は宇宙の縮図である」と思っています。やがて人間が宇宙の研究に行き詰っていったときに、医学という学問が宇宙の解明に大きく貢献してくれる日が来ると思っています。マクロの宇宙の仕組みも、ミクロの人体の仕組みも、その仕組まれているシステムは同じだと思うのです。「マクロ、即、ミクロ」(マクロも、ミクロも、中身は同じもの)ですね。

 シュタイナーが言われた「宇宙の観点から見ると、医学はひとつの宇宙詩です。病的なもの、人を病気にするものは、他の場合には最高のもの、この上なく美しいものでもあるのです。このことの中に、宇宙の多くの秘密が潜んでいます。」の言葉の中の「このこと(人間の病気・病理)の中に、宇宙の多くの秘密が潜んでいます」という部分を目にして、シュタイナーが私の感じてきた上記の内容を深く理解していたのではないかと思い、「流石はシュタイナーだなァ~」と面白く思ったものです。シュタイナーと同様に、私も「医学は、やがて宇宙の仕組みに迫っていく」と感じています。

 ここで、ある疑問が浮かびます。「じゃぁ~、病気をしたって良いのか?」ということです。人間が病気になるのは、現代医学の言うような「人体の異常」ばかりが原因ではありません。心の異常(心の悪想念、つまり 恨み、憎しみ、嫉み、嫉妬、不平、不満、強欲、金欲、物欲、自己中心的、利己的、悪意・・・)が原因で起こることもあります。甲田光雄先生はこれらの「心の悪想念」を「心の宿便」と言われていました。甲田先生は「病気を治すには心の宿便まで取らなければならない(自分の心から「心の宿便」を排除しなければならない)」と言われていました。自分の悪想念がどれほど自分の体に悪作用を及ぼすのかを、よく理解されていたのです。心の宿便(悪想念)のみならず、霊学で言うところの「因縁消化:因縁昇華(カルマ清算)」や「魂(心)の成長のため」という「この世の仕組み」が機能して、病気を引き起こしていることもあります。これは霊学よりの話になってしまうので、ここでは話しません。でも一つだけお話したいことがあります。「健康への努力をすることによる、魂の修業(心の成長)」と「病気の経験による、魂の修業(心の成長)」についてのお話です。



「健康への努力の経験」と「病気の経験」、どちらの修業が良いか?

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  甲田光雄先生は「人間の人生は修業である」と言われていました。これは、霊学的には正しい見解です。人間は自ら望んで人間界に生まれてきます。自分の魂の因縁に見合った生まれを選択し、いかなる不遇な生まれであろうとも、その生まれを納得し、享受して生まれてきます。これはなぜかと言いますと、自分の魂(心)が人間界に生まれ出るには、まず最初に、自分の魂(心)が所有している因縁バランスをとる必要があるからです。ですから、生まれて来る時点で、自分の因縁バランスに見合った生まれを「自分で」選択するわけです。そうしないと、人間界に人として生まれ出ることができないのです。自分で選んだその家系が所有している「家系の因縁」の中から、自分に見合った因縁を選択して身に受けることで、「その家系自体の因縁消化」の役に立ちます。ここまでして、ようやくその家系に生まれ出ることが許されるのですね下記に注釈。この点は、霊的な「ギブ&テイク」なのかもしれんせん。自分で選択した「家系」の両親から肉体を授与されて、人間人生をスタートします。こうして人間界に人間として生まれ出た後、人間期間(生まれてから死ぬまでの人生期間)を生き切り、肉体の死をもって人間期間の魂(心)の修業を終焉し、元来た「霊的生命環境(霊学では「幽界」「霊界」と言います)」に帰っていきます。ゆえに日本神道では、昔から人が死ぬことを「帰幽する」と言っていました(そのままの「言葉の表現」になっていますね)。

 人間が病気をすることは魂(心)の修業の一つでもあるのです。病気を通してでしか学べない(感じ取れない)ことが多くありますからね。では、病気はしたほうが良いのかと言えば、そうではありません。心の成長に必要として病気を経験している人も多くいますが(特に心の病)、故意に自ら望んで病気などする必要はありません。

 甲田療法のような過酷な食事療法を実践されている方ならば強烈に分かることなのですが、食をコントロールすることはまるで修業にも似た苦しさがあります。甲田療法は厳格にやれば、病状が軽減したり、大きく治癒されたりします(たくさんの方が経験しています。うちの両親も経験済みです)。しかしこれを継続するのには、学びと理解と実行力が必要です。凡そ、現代の日本人ではできない人のほうが遥かに多いことでしょう。「食事療法のような食事はなかなか完全にはできないが、学んで理解して努力して実行する」、ここに大きな魂(心)の成長が用意されているのです。現代の日本人の病気のほとんどが、間違った飲食が原因となっていることは世間でも知られている事実です。現代の日本人は、健康のために何か新しく始める人がたくさんいますけれども、実際には、何か新しく止めねばならないことのほうが遥かに多いのです。現代の日本は、昔とは違って美食だらけの社会ですから、至る所、美食をしやすい環境が整えられています。美食ばかり飽食すれば、必ずや病気になれるでしょう。病気になって苦しむことで、病気の経験からいろいろなことを感じて、大事なことを会得できます。ここに、魂(心)の成長としての「病気の価値」があるのです。病気を遠ざけたければ飲食を正すことが基本ですが、人間は美食に走りやすく、「食を正す」ことの大切さが分かっていても、なかなか難しいものです。でも難しいからこそ、大なる価値があるのですね。

 現代は、人類が急速な進歩を促されている「稀有なる時代」でもあります。時代は散々貧しかった日本国に大量の美食を与え、他にもいろいろな便利なものを与えてくれています。より多種の病理を生み出しやすい環境を提供し、そこから急速に深いことを見つめさせようとしています。それは、政治、経済、その他の社会現象を見ても、あらゆる分野で行き詰まりが見えていることから、今、人類が深い進歩を促されているのがよく分かるはずです。現代の日本が「一億総半病人」の時代に突入して行った影には、このような大きな深い理由があると、私は見ています。そして、病苦を通しての個人個人の因縁消化(カルマ清算)も急がされているような気がしています。

 人間の人生には、自分の肉体を通しての成長(心の学び)が、誰にでも用意されているのです。「健康への努力の経験」を通して成長していく人・・・、「病気の経験」を通して成長していく人・・・、両方の道がありますが、私はなるたけ「病気の経験を通しての成長」などすることなしに、「食養という手段への努力の経験を通して会得していく、成長の道」を自ら進んで歩み、誰もが健やかに生きれるようになってほしいと願うのです。

 人間の正体は、あくまで心(魂)です。心(魂)の成長のために、この雑多な人間界が深い意味で用意されているとも言えます。心(魂)の成長を果たさなければ、この度の自分の人間人生が無駄にさえなる(酷い場合には堕落にさえなる)と言えるかもしれません。この度の自分の人間人生を通して最後に残るものは、土地、財産、お金などではありません。最後に残るものは、やはり「心(魂)の経験と智慧」だけです。人間の肉体などは、結局、最後は焼かれて骨になるだけです。肉体も残らないものの一つなのです。人間の健康と病気の真理とは、最後は消えてなくなる肉体を通して、永遠に残る自分の心(魂)が成長していくために用意されている教材にすぎません。もちろん、健康と病気のみならず、肉体があればこそ人間の人生を経験できるのですから、肉体を通しての経験の全てが「心(魂)の教材」なのですね。人間にとって、健康と病気の問題は誰もが有していることです。人間の「健康と病気」の役割上、「健康への努力の経験を通して、自分の心(魂)を成長させていく道」を選ぶも良し・・・、「病気の経験を通して、自分の心(魂)を成長させていく道」を選ぶも良し・・・、本当にどちらでも構わないのです。みなさんはどちらを選択しますか?


注釈

 ここの点については、もう少しお話ししたいと思います。生まれながらに難病の人がいます。「難病を背負って生まれてきたのは、親が悪いのだ! 親のせいだ!」と親を恨んでいる人もいますが、これは見当違いです。「自分がこんな体で生まれたのは、こんな環境に生まれたのは、親のせいだ!」というのは間違いなのです。「その生まれを享受しなければ、自分は人間界に生まれ出ることさえできなかった・・・」という摂理の真相があります。ですから、いかなる生まれであろうとも、「親を恨む」というのは完全な早合点です。「いかなる生まれであろうとも、自分が人間界に生まれ出れる機会を与えてくれた両親には感謝こそあれ、恨むなどというのはまったくの見当違いである」と言えるのです。真相は真逆にあるのですね。

 「親を恨む・・・、先祖を恨む・・・」、これは『自分を人間界に生まれ出させてくれた家系』自体を否定する行為ですから、完全に自己否定にもなっています。自己否定は自分を責める行為ですから、自分自身から良くない転写を受けてしまいます。自己否定は運の悪さ(不運)をも引き起こすのです。「自分は運が悪い」と言われる人も多いのですが、そう思われる方は「感謝不足」であるとも言えるのです。

 「感謝の順位」については、「自分への感謝」「親への感謝」「先祖への感謝」から始まり、「周り(周りの人たちから自然界に至るまで)への感謝」に進んでいくという順序が「感謝の本位」であると、私は認識しています。世間でも昔から「人に感謝なさい」とはよく言われてきましたが、「自分に感謝なさい」とまで言われている人を、私は見たことがありません。「自分への感謝」は霊的に見ても案外と重要なことなのです。自分に感謝すれば、霊的(摂理的に)に自分から応援されます。この「自分への感謝」が抜けている(欠けている)人がとても多いのです。自分という存在があればこそ、この雑多な人間界を味わえます。他次元の生命世界から見れば「特殊な世界」とも言えるこの人間界で、自己の様々な因縁の消化(因縁昇華)も短期間で(たったの80年間で)できます。これは、他次元の生命世界ではあり得ないことなのです。だからこそ、みんな勇気を持って、この人間界に生まれてきたがるのです。

 もし自分という存在がこの人間界にないのなら、自分にとってはこの人間界さえないも同然です。かつて、
アルベルト・アインシュタイン博士は月を見てこう言いました。「あの月は本当に存在しているのか?」と。「自分が存在していなければ、あの月すら存在していないのと同じことだ」と言われたのです。これはとても面白い表現です。本当に自己を中心として考えたならば(世間によくある「自己中心的(ジコチュウ)」とは違いますよ♪)、霊的にはそうとも言えるのでしょうね。この世があればこそ、自分という存在があります。同時に、自分にとっては「自分がこの人間界に存在していればこそ、この人間界がある」とも言えるわけです。人間界に生まれてくることは容易なことではありません。人間として生まれている時点で本当に凄いことなのです。自分が「この世から認められている」ことでもあるのですね。その自分のお陰をもって、この雑多な人間界に生まれ出れたことで、人間界での貴重な日々を「期間限定」で(自分の肉体の終焉まで)味わうことができるのです。それができるのは、自分がこの世に認められているお陰なのですね。

 ですから、感謝の始まりは「自分への感謝から」であるはずなのです。自分が気に入ったことだけに感謝するのは、ペットのワンちゃんにだってできちゃうことですからね!「自分という存在に感謝する」ということ・・・、もしかしたら、これを理解できるか否かが、人間と動物との「霊格的な差」なのかもしれないなァ~と、私は思ったことがあります♪
「人間は万物の霊長である」というのは事実です。昔の人はとても分かりやすい表現をしていることが多いですね!

 いかなる生まれであろうとも、その生まれを享受することでしか人間界に生まれ出ることができなかったという摂理の真相があるのです。ですから、自分が人間界に生まれ出る機会を与えてくれた両親とその家系に対して、まずは感謝をしなければなりません。親、先祖を恨む行為は自分を生み出してくれた「生命の根本」への否定行為となり、それが良くない転写を生み出してしまうのです。親、先祖を恨んでいる人も多いと聞きますが、できれば、この世にはそのような「摂理」があることを理解されて、まずは「親、先祖への感謝」に進んでほしいと思います。

 この世で一番尊い心の動きは「感謝」だと言います。感謝とは「相手に良い評価を与える」ことです。「人間期間(人生)」を終えて霊的生命現象の環境(霊的生命の次元世界)に帰幽したときに、一番貴く評価されるのは「人間時代に、どれだけ多くの人に感謝をされたか」という点が挙げられます。ですから、相手に感謝をすることは、霊的に見ても「相手を助けている」ことになっているのです。「相手を助ける」という転写が必ず自分に跳ね返ります(ブーメランのように・・・)。

 一番最初に成すべき「感謝の矛先」は、自分が人間界に生まれ出る機会を与えてくれた「両親」と「家系の先祖」であるのです。自分以外に向ける感謝とは「両親、家系の先祖への感謝」から始まるのですね。そして自分の心の成長につれて、自分が自然とできる「感謝の範囲」が広がっていくと、「自分の周りの人たち」へ、「社会の人たち」へ、そしてどんどん広がれば「自然界の存在たち」へ、もっと広がっていけば「宇宙の存在たち」へ、もっともっと意識の進んでいる人ならば「多次元の生命存在」へと「感謝の拡大」は進んでいきます。感謝とは非常に奥が深く、広大無辺に広がっていくのですね!

 ここまで行くと、世間によくある「うわべの感謝(お世辞)」などつまらなく感じてきます。世間で生きるには世辞も必要ですが、誰に対しても世辞止まりでいては虚しくさえ感じます。最近は、若い人を中心に「世辞による、うわべの人間関係に虚しさを覚える人たち」が増えているようですが、これは正しい反応です。その人の感性が無意識のうちに、その「うわべの心の虚しさ」を教えてくれているのでしょう。しかし、今の世間でこんな感覚を口にすれば、「甘ちゃん」だとか、「精神的に細い人」だとか言われてしまうことも多いのでしょうが、私から見れば、このような人は意識が非常に進んでいる人なのです。ご自分の感じたことをそのまま大事にされてほしいと思います。むやみやたらと、何でもかんでも世間に合わせる必要はありません。間違っていることならば尚更です。今でも、世間の方々の中には「世間で当たり前に言われていることならば、それは当然正しいこと」と思い込んでいる人が まだまだ多いです。私などは「逆に、真実のほうが世間には出にくい」と感じています。「世間には嘘のほうが多い」とさえ思っています。これについては、このブログサイトにも色々と書いています。「色々なものを真剣に見つめて紐解いていけば、世間で言われている常識とは真逆の方向にこそ、本当の答え(真実)がある」なんてことはざらにあるのですね。みなさんも本物探しをしてみてください♪




玄凡」ということ

  肥田春充先生はよく「玄凡」と言われていました。下写真は肥田春充先生の「玄凡」の書です。「玄凡」とは「玄妙、即、常凡」の略です。「玄妙、即、常凡」とは、「玄妙(人間が理解できないような、この世の奥深さ)と 常凡(私たちの身の周りに普通にある、ごく当たり前な物事)は 同じもの」、つまり「私たちの身の周りに普通にあるものの中にこそ、玄妙なる奥深い仕組みがあるものだ」ということです。

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 人間は、現代のような高度な科学に至ってもなお、ゼロから生み出し作れるものなど何一つありません。高度になった「化学素材」や「化学繊維」にしても、必ず自然界の材料が必要です。ましてや、そこらへんにいる昆虫などの生き物の存在ひとつさえ、科学の力でゼロから作り出すことなど、とてもできないのです。人間の科学はいまだに、私たちの身の周りにある「平凡な存在」ひとつさえ作り出すことができないのですね。

 現代科学(化学)は素晴らしい発展を遂げました。しかし、その現代科学(化学)は高度な文明を築くと同時に、高度な病理まで生み出してしまいました。その背景があることを忘れずに、「科学(化学)に自惚れてはならない」という気持ちを忘れてはならないと思います。

 文明学者であり、理学博士であり、京都大学の名誉教授でもあられた「梅棹忠夫うめさお ただお)」先生は、「知的探求心は人間の業である」と言われていました。これは「人間は知的探究心により優れた科学文明を切り開いてきたが、その科学文明によって、人間は滅ぶ道へと進んでいるのではないか」ということです。梅棹忠夫先生は人類の未来に懸念を抱いていました。これは医学でも当てはまることです。医学に科学(化学)が導入されてから、現代医学は大きく発展しました。しかし、現代医学は化学療法の手段に傾倒しすぎてしまい、今や化学医薬の乱用による「薬物障害」で慢性疲労症候などの重い病気になる人が増えてきています。「科学(化学)の乱用の悪循環」にさえなっている感があります。医学に科学(化学)の力を乱用しすぎると、逆に人体は弱体化していく、かえって体が病んでいく現象だって起こっているのです。科学(化学)的手段に傾倒しすぎた現代医学が、さらなる「病人生産」をしている感さえあるのです。これを梅棹忠夫先生の表現に合わせれば、化学療法に傾倒しすぎる現代の医療体制をこのまま突き進めて行ったのなら、「健全な人体の滅亡」につながっていくような気がします。これは本当に恐ろしいことなのです。
「医療行為」が原因で病気になってしまうことを「医原病」と言います。これは経験したことのある患者さんでなければ甘く見てしまうことですが、現代ではこれが非常に多く、深刻な問題となっています。ちょっとした抗生物質や点滴ですら、細胞を破壊し、腸内細菌を死滅させてしまうほどの害を出すこともあります。これで苦しむことになってしまった患者さんも、とても多いのです

 医学的にも便利な科学(化学)に頼りすぎることなく、もっと身の周りに昔からある「単純な手段」を活かしてほしいと思います。食養も少食もそうですが、当ブログサイトでご紹介しています「亀の子たわしによる皮膚機能の強靭化」もそうです。このような「お金のかからない価値ある手段」に意識を向けて、フルに活かし切ってほしいと思うのです。私たち現代人は科学(化学)の言い出し始めたことに対して、無条件で「丸呑み 鵜呑み」してしまうところがあります。栄養学などはその塊です。「周りに普通にあるものだから」と、人間がつい馬鹿にしてしまうような「当たり前なもの(平凡なもの)」の中にこそ、現代科学(化学)がいまだにたどり着けていないような「価値ある摂理」があるはずです。自分から遠くにある難しいもの(病院の化学療法)を求める前に、自分の近くにある当たり前なもの(自宅でできる価値ある手段)にもっと気がついてほしいのです。

 私たち人間の身の周りにある「平凡なもの」の中にこそ、人間の学問がいまだたどり着けていない「玄妙なる宇宙の仕組み」がすべて含まれていると、私は思っています。



 食には、宇宙の仕組みが そのまま含まれている

 私のやっている「生菜食」などは、世間の人から見れば、単なる「大盛りのおサラダ♪」程度にしか映らないかもしれません。これが本当に単純なのです。だってですよ、多種の生野菜をよく洗って水を切り、一口サイズに切って、24cm 幅のボールに盛って、ハイ出来上がりです。

 私の「生菜食」はとても簡単です。作りたいときに、すぐにできます!
 「生菜食」とは、その姿は実に「単純なもの」なのです。
私は「根菜野菜」では大根と人参をよく食べますが、大根と人参は摩り下ろしてから食べます。「根菜野菜」は摩り下ろすと、酵素が活性化して3~5倍になります。酵素摂取には最適です♪「根菜野菜」の他にも、リンゴを擦り下ろしてから食べれば、同様に有効です

 ところが、私にはこの単純な「生菜食(生玄米食を含む)」という「食の手段」の中には無限の宇宙を感じます。植物の生食には、栄養学がいまだたどり着けていない(栄養学では解明されていない)「食の仕組み(食の原理)」がすべて含まれていると感じています。「生きた植物を生の状態で(何の調理の手も入れないで)食べる」ということは、自然界の動物と同じ食行為になります。このような生食の手段の中には、自然界の動物が当たり前に得ている「健康の仕組み」が潜んでいるものです。逆に、人間のように調理手段によって食をいじくって不完全にすれば、そこにはシュタイナーの言われたような「美しい病理の仕組み」が潜んでいることでしょう。私は生菜食の他に、右上写真のような「浸水させた発芽直前の生玄米」を生で食べることがあります。毎回の生菜食の食後にはエネルギーに満たされる感覚を受けますが、特に「浸水させた発芽直前の生玄米」の生食をした後には生菜食以上のエネルギーを受けている感覚を受けます。結構、強烈です。エネルギーと言っていますが、私の受けたこの感覚を、現代用語のどの言葉を使ったらよいのかが分からないので、「エネルギーに満たされる」「エネルギーを受ける」という表現になってしまいます。この表現が限界です。

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 上写真のような「発芽直前の生玄米」は一粒一粒が生きて生命しており、蒔けば何十倍にもなる力を有しています。その力は、食べた側に直接そのまま移ってくる(転写してくる)ものです。自然界の動物が病まないわけが、ここにあるのです。

 だからと言って、私は世間の方々に対して、誰にでも生菜食や玄米の生食をしてほしいだなんて一切思いません。私は個人的に「食の真理」として、生菜食や玄米の生食が気に入っているだけです。気に入っているから実行しているだけです。ですから、世間の方々にはせめて食養(玄米菜食を中心とした粗食)をしてほしいと願っています。

 では、玄米菜食以外はしていけないのかと言えば、そうではありません・・・。
 ここで、私が人にお薦めしています「8:2 主義」というものをご紹介します。



 2 主義 ( 食養8:美食2 )

 「8:2 主義」とは「食養(玄米菜食を中心とした粗食)が8割、美食が2割」というものです。「日常の食生活の凡そ8割を食養として実地し、残りの2割を美食に充てる」ということです。現代の日本に生まれ、美食を楽しむことができるのも恩恵ですから、しっかりと享受すべきです。

 だからと言って、美食10割では病んでしまいます。「病んでも構わないから、美食10割でいい・・・」という人は、ご自由にどうぞ♪ それで良いと思います。しかし、それによって得ることのできた病苦は自己責任で享受しましょう。

 「日頃から食養を守っている体であればこそ、たまに美食をしようともびくともしない!」、これが「食養の価値」なのです。余計な病気をしてしまうリスクを減らし、体を強く丈夫にしてくれます。「日常の食生活の8割を食養の実地として守り、残りの2割を美食に充てて楽しむ」、これで良いのではないかと思います♪

 「玄米菜食を中心とした粗食」といっても、ただ単に玄米菜食であるだけではいけません。「玄米菜食さえしていれば良い」ということではないのです。「少食」という手段が重要なのです。「玄米菜食を一日三食、しかも過食してしまう・・・」などしようものならば、「普通食の少食」よりもタチが悪いのです。玄米菜食の「少食」であることが大事なのですね! ですから食養とは、食養学(玄米菜食を中心とした粗食生活)のみならず、少食医学、断食医学という「食べない方向性の価値」まで含まれるのです。この「食べない方向性の価値」まで理解していないと本当ではありません。「食養を実践すること」と「食べない時間をしっかりと持つこと」はセットであるのです。「食べること」は食養学から、「食べないこと(食べない方向性の価値)」は少食医学・断食医学から理解が得られます。ゆえに、私は「食養学」「少食医学」「断食医学」の3つをまとめて『食養』と言っています。

 みなさんも「8:2 主義(食養8美食2)」の「少食」を見つめてみませんか?
 この意義を、当ブログサイトの中から掴んでみてくださいね♪



 次世代に、安全な食を手渡そう!

jisedai

 現代の食事情は散々たるものがあります。栄養学の入れ知恵によって、食品への化学汚染が激しいのです。化学農薬、化学肥料、化学飼料、食品添加物、サプリメントなどの化学精製医薬品、特に食品への様々な薬物添加が酷く、挙げればきりがありません。

 また、食品への加工もし過ぎる嫌いがあります。これらの汚点が時間をかけて人間の体を蝕み続け、世代を経て、人体を弱体化させていくことでしょう。これが露出してきているのが現代の日本と言えます。日本人は、今や病人だらけですからね! 現代では先進国を中心に、昔からどこにでもいるような大腸菌にすら負けて亡くなる人が出てきています。若者は老人病にさえなっています。若死にする人が急増化しています。癌になる人、癌で亡くなる人が後を絶ちません。この根本原因はどこにあるのでしょうか?

 食とは「人体と食物との融合」なのです。正しき食をすれば人体には正しきが融合されてきますが、間違った食をすれば間違いが人体に融合されてきます。体内に置いて、この「食の仕組み」は見事に遂行されるので、大目に見てくれることなど決してありません。正しき食には正しき融合が、間違った食には間違った融合が、そのまま遂行されます。

 英語で『 You are what you eat. 』という格言があります。この意味は「あなたは、あなたが食べたもの、そのものである」という意味です。「あなたの体は、あなたが摂取した食べ物・水からなります。自分が食べたそれらの食物が体に悪ければ、当然あなたの体は何らかの故障を起こすでしょう。良い食物を食べれば体はよくなるでしょう」ということです。「何を食べるか! 何を食べないか!」が重要なのですね。

 みなさんが日常しているその食は、正しき融合を果たしてくれているでしょうか?
 それとも、間違った食との融合でしょうか?

 この視点は当ブログサイトをご覧になって頂いて、ぜひ掴んで頂きたいことなのです。昔から「食は命」と申しますが、これはまぎれもない事実です。私はまだ若僧ですが、私のような若僧とて、この先の「食の安全」がいや増し崩れていきそうで本当に恐ろしくなります。

 以前、NHK の番組で、このようなシーンを見てしまいました・・・。離乳したての赤子に、50代くらいの(その赤ちゃんの)祖母が平気な顔して市販のナポリタンを食わしていたのです。「こんな離乳したての赤子に、よくも まぁ~笑いながら市販のナポリタンなんてを食わしておれるものだなァ~!!!」と怒りを覚えたのを思い出します。しかも、NHK はそれを平気で放送していました。離乳したての赤子に平気でそんなものを食わしておいて、後日、その子供に何らかの症状が出てきても、その祖母は何の責任もとれないでしょう。これを「無知の罪」というのです。でも、これはこの方に限られたことではなく、今や日本の大人たち全体に言えることのように思います。大人が食に対してチンプンカンプンになってしまった感があるのです。これで、子供たちの健康は守られるとでも言うのでしょうか? 今現在、小児病が急増しています。今、私たちは本気で次世代の子供たちに「本当に安全な食の姿」を伝え残していかなければ、もう間に合わなくなるような気がしています。

 食の安全性については、2011年3月以降、「食品への放射能汚染」が懸念され続けています。しかし、食の安全を脅かす事態は、食品への放射能汚染の遥か以前から、「食品への化学汚染」という公害として、国民の気づかぬところで確実に着実に進行し続けていたのです。そのことを大人の方々が深く理解せねば、現代の子供たちには理解できるものではありません。栄養学も当てにはなりません(栄養学は、この化学汚染を推奨している感さえあります)。私たちは一人一人が本当の「本来あるべき食の姿」を知って学んで実践していくべきです。

 これから、巨大な食糧危機と水不足が日本にもやって来るそうです。そのときには、もう栄養学の言うような栄養満点の「素敵な食事メニュー」など食べられません(食糧がないですからね・・・)。そのとき日本人は(日本の食糧自給率は3~4割以下ですから)強制少食&強制粗食に入っていくはずです。そして、栄養学の指導するような食事を取れなくなった日本人は病気になって病んでしまうのかと言えば、真逆に持病が改善したり治ったりする人が増えてくると、私は見ています。そこまで行ったときに、多くの日本人が「栄養学には盲点があった」ことにようやく気がつき始め、本格的に「食養」に帰着し始めていく時期が来ると、私は感じています。

 このブログサイトが「食養への架け橋」と成れたなら・・・ と思っています。そうなれたなら有り難いと思っています。
 私は私なりに、そういう信念を(多少は・・・)持って、このブログサイトをネットの世界に置かせて頂こうと思っています。

 あまり上手に話せませんでしたが、これが私の「食養への信念」です。