日月神示《食の啓示》

 今では、日月神示のことをご存知な方がかなり増えてきました。
 ここでは、日月神示にみられる「人間の食の在り方」の啓示についてご紹介します。

 私は、日月神示の中の「食の啓示(食の指導)」の部分が気に入っています。
 日月神示はいわゆる「神典」の部類に入るのでしょうけれど、なかなか素晴らしい「食の啓示」があります。日月神示が示す「食の啓示」は、まさに「食養学」の内容そのものです。この「食の啓示」の内容に触れてみると、非常にためになります。短い文章の中に、実に深い意味が込められています。

 日月神示を初めて知る方は、「神典」と言えどもあまりかまえずに、気軽く気軽く触れてみてください。日月神示は今や有名になりましたので、ご存知の方のほうが多いかもしれませんが、ご存知の方も、まだ知らない方も、この素晴らしい「食の啓示」にぜひ触れてみて頂きたいと思います。やはり「神典」ですから、それなりに「神典っぽさ」はあります。しかし、素直になって読んでみると、案外と日本人には、何となく感覚的に理解できてしまうものがあると思いますので、食養学に触れるような心持ちになって触れてみてください。日月神示の「食の啓示」の部分だけを集めまして、そのままの文をご紹介します。

 それでは、日月神示の「食に関わる啓示の部分」を、ひとつひとつご紹介していきましょう。


■■ 日月神示 ~ 食の啓示集 ~

   牛の喰べ物 たべると、牛の様になるぞ。 猿は猿、虎は虎となるのざぞ。
    臣民の喰べ物は、定まっているのざぞ。
    いよいよとなりて 何でも喰べねばならぬようになりたら、 虎は虎となるぞ。
    獣と神とが分かれると申してあろがな。
    縁ある臣民に知らせておけよ。 日本中に知らせておけよ。 世界の臣民に知らせてやれよ。
    獣の喰い物 くう時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、
     そうすれば 神の喰べ物となって、何たべても 大じょうぶになるのぞ。
    何もかも 神に献げてからと申してあることの道理 よく分かりたであろがな。
    神に献げきらぬと 獣になるのぞ。
    神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、
     よく分かったであろがな、くどう申すぞ。
    八から 九から 十から 百から 千から 万から、何が出るか分からんから、
     神に献げな 生きて行けん様になるのざが、
     悪魔にみいられている人間、いよいよ 気の毒出来るのざぞ。


   草木は 身を、動物 虫けらに捧げるのが 嬉しいのであるぞ。
    種は残して 育ててやらねばならんのざぞ。
    草木の身が、動物 虫けらの御身(みみ)となるのざぞ。
    出世するのざから、嬉しいのざぞ。
    草木から、動物 虫けら 生まれると申してあろがな。


   土から 草木 生まれるぞ。 草木から 動物、虫けら 生まれるぞ。


   四ツ足を食ってはならん。 共喰となるぞ。 
    草木から 動物 生まれると申してあろう。
    神民の食物は、五穀 野菜の類であるぞ。


   日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、
     皆 人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。
    日本人には 肉類禁物ぢゃぞ。
    今に 食物の騒動 激しくなると申してあること、忘れるなよ。
    今度は 共喰となるから、共喰ならんから、今から 心鍛えて、食物 大切にせよ。
    食物 おろがむ所へ、食物 集まるのぢゃぞ。


   日本には 五穀、野菜、海、川、いくらも 弥栄の食物 あるぞ。
    人民の食物 間違えるでないぞ。
    食 過ぎるから、足らんことになるのざぞ。


   一升マスには 一升入ると思っているなれど、一升入れると こぼれるのであるぞ。
    腹一杯 食べてはならん。 死に行く道ぞ。 二分を 先づ 神にささげよ。


   食物は 科学的栄養のみに囚われてはならん。 霊の栄養、大切。


   臣民 一日に二度 食べるのざぞ、
    朝は 日の神様に供えてから頂けよ、夜は 月の神様に捧げてから頂けよ、
    それが、まことの益人ぞ。


   この世は みな 神のものざから、臣民のものというもの、一つもないぞ。
    お土からとれた物、みな 先づ 神に供えよ、それを頂いて、身魂を養う様になっているのに、
     神には献げずに、臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても 身魂ふとらぬのぞ。
    何でも、神に供えてから喰べると、身魂ふとるぞ。
    今の半分で足りるぞ。 それが臣民の頂き方ぞ。


   そなたは、食べ物は自分でないと思うているが、食べるとすぐ自分となるではないか。
    空氣も同様、水も同様ぞ、火も同様、大空も そなたぞ。
    山も 川も 野も、植物も 動物も 同様ぞ。 
    人間は 横の自分ぞ。 神は タテの自分ぞ、自分を目極めねばならん。
    自分をおろそかにしてはならん。 一切をうけ入れねばならんぞ。
    一切に向かって感謝しなければならんと申してあろうが。


   食いて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。


   食べるには噛むことぞ。 噛むとは かみ(神)ざぞ。
    神に供えてから噛むのざぞ。 噛めば噛むほど、神となるぞ。


   食物 頂く時は、よくよく噛めと申してあろが。
    上の歯は 火(カ)ざぞ。 下の歯は 水(ミ)ざぞ。
    火と水と合すのざぞ。 かむろぎ、かむろみぞ。
    噛むと力生まれるぞ。 血となるぞ。 肉となるぞ。


   遠くて 近いもの 一二三の食べ方してみなされよ。
    運 ひらけ、病 治って、うれしうれしと輝くぞ。
    そんなこと位で、病 治ったり、運 ひらける位なら、
     人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。 理窟悪と申してあるもの。


   遠くて 近きは、男女だけではないぞ。
    神と人、天と地、親と子、喰べる物も、遠くて近いがよいのざぞ。


   一二三の食べ方 心得たら、今度は 気分ゆるやかに うれしうれしで食べよ。 天国の食べ方ぞ。
    ただ 喜びに向かって、ひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。
    正しき喜びを、先づ見極めよ。 見極めて、ひたすらに進めばよいのぢゃ。
    食物を食べるのも、喜びであるぞ。 
    正しき食物、正しく食べよ。 更に 喜び増えて、弥栄えるのぢゃ。
    自分の喜びを進め進めて、天国へ入ること出来るのぢゃ。
    悪い食物、悪く食べるから、悪くなるのぢゃ。
    目に見える食物ばかりでないぞ。 何もかも 同様ぞ。
    人民は 喜びの子と申してあろう。 罪の子でないぞ。 
    うれしうれしの道あるに、何故 歩まんのぢゃ。


   病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己れからぢゃ、と申してあろう。
    誰でも、何でもよくなるのが 神の道、神の御心ぢゃ。 親心ぢゃ。
    悪くなるということないのぢゃ。 迷いが迷い生むぞ。
    もともと 病も 不運もない 弥栄(いやさか)のみ、喜びのみぢゃ。
    神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆 よろこびであるぞ。 この道理、よくわきまえよ。

    毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上れよ。
    その日の仕事、与えられるぞ。 仕事いのちと仕えまつれよ。
    朝寝するから チグハグとなるのぢゃ。 不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。
    神について行くことが 祈りであるぞ。 よろこびであるぞ。

    食物、食べ過ぎるから 病になるのぢゃ。 不運となるのぢゃ。
    口から出るもの、入るもの 気つけよ。 いくさ(戦) 起こるのぢゃ。

    人間の病や、いくさ(戦)ばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も 川も 海も、
     みな 病となり、不運となってくるぞ。

    食べないで死ぬことないぞ。 食べるから死ぬのぢゃぞ。

    一椀をとって 先づ 神に供えよ。 親にささげよ。 子にささげよ。
    腹八分の二分は、ささげよ。 食物こそは、神から、親から与えられたものであるぞ。
    神にささげずに むさぶる(貪る)から、メグリ つむ(積む)のぢゃ。
    メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。

    運 ひらくのも 食物つつしめばよい。 言(こと)つつしめばよい。

    腹十分 食べては、こぼれる。 運はつまって、ひらけん。
    この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。 ささげるからこそ、頂けるのぢゃ。
    頂けたらささげると 今の人民 申しているが、それがウラハラと申すもの。

    衣類も 家も 土地も、みな 神から頂いたのでないぞ。 あずけられているのであるぞ。
    人民に与えられているものは、食物だけぢゃ。
    日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。

    その食物 節してこそ、ささげてこそ、運 ひらけるのぢゃ。 病 治るのぢゃ。
    人民 ひぼしにはならん。 心配無用。
    食物、今の半分で足りると申してあろうが。

    遠くて 近いもの、 ヒフミの食べ方して見なされよ。
    運 ひらけ、病 治って、うれしうれしと輝くぞ。

    そんなこと位で、病 治ったり、運 ひらける位なら、
     人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。 理窟悪と申してあるもの。
    低い学に囚われた、メクラ(盲)、ツンボ(聾)と申すものぞ。

    理窟すてよ。 すてて、やって見なされ。
    みなみな 気つかん理(ミチ)、気つかん病になっているぞ。

    ツキモノ(憑依霊)が たらふく食べていることに気づかんのか。
    食物 節すれば、ツキモノ 改心するぞ。

    先づ 百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら 開運 間違いなし。

    病もなくなって、うれしうれしとなるぞ。
    三年目、五年目、七年目ぞ、 めでたいナア、めでたいナア。


霊人はまた、いろいろな食物を食している。言うまでもなく、霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食べる霊人も、いずれも食べるということによって歓喜しているのである。
  食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば、霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか、判らない程である。
  また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より、遠くはなれたもの(離れたもの)を好む。現実社会における、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど、歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると、歓喜しないのみならず、反って不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。



■■ 日月神示の「食」に関する指導の「3大ポイント」

 (1) 自分の住む土地()で採れた「穀物・野菜・豆類・海藻類などの植物食」を、少食で食べること。
    (「身土不二」の「玄米菜食」による「少食」の生活をすること

 (2) よくよく噛むこと。( 咀嚼すること

 (3) 喜びをもって食べること。( 感謝して、楽しく食べること



■■ 日月神示の「食による身魂磨き」

 神示や神諭によれば、最も重要かつ最優先すべき身魂磨きの方法とは、正しい食生活を実践することである。日々どんなものを食べ、血肉としているかによって、肉体を掃除することもでき、また逆に汚すことにもなり得る。

 まず第一に必要なことは、食生活を改め、食生活を規制することだと申されている。日本人には日本人に適合した正しい食べ物があり、正しい食べ方がある。この原則を無視して、無茶苦茶なものを無茶苦茶に食っているから、次第に血液が濁り汚れて動物化し、日本人に付与された天賦の霊性を発揮出来なくなっているのである。要するに、日本人の身魂磨きの方法は、神示に従って、日本人に適した衣食住の生活をやることである。特に、食生活を改めるということが、最も重大である。